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2008年9月 7日 (日)

湊町 1976/3/28

19760328
関西本線の終点です。
片町駅と同様環状線の内側に入り込んだターミナルですが、
電化されたのが遅く、貨物扱いも行われていましたので
一時代前のターミナル、といった雰囲気でした。
配線図には転車台が記載されていますが、さすがにこの時点では撤去されていました。

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貨車があふれている構内です。

19760328b03
画像が汚くてすみません。

以下は1992年5月16日撮影です。

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名古屋方です。

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地下化の工事が行われています。

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ひっそりとしたターミナルです。

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これは今宮駅です。
関西線が環状内回り線の下をくぐって右にカーブして湊町に向かいます。
この時点では環状線には今宮駅はありませんでした。

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コメント

湊町駅とともに旧今宮駅も懐かしいです。相対式ホームで古い跨線橋があり、汽車時代の名残をとどめていました。そして当時上を通る大阪環状線内回り線の車窓から、その旧今宮駅の東側に、より古いホーム跡と思われるものも見えました。
私は知らないのですが、もっと以前はそちらが今宮駅だったのでしょうか。

 まず主題から。湊町駅の明治期の末の姿は、柏原から続く複線のターミナルらしい設備を有し、転車台の西側(図では上側)に4線の矩形庫を有し、中央部西側、図では貨物ホームらしき所に工場施設があったようです(吹田工場の前身:他方四日市工場は名古屋工場の前身)。この矩形庫は昭和10年頃にもあったようで、多分S14年頃開設の竜華区がその後機能的にとって代わったのでしょう。
 昭和40年頃には、実現には至りませんでしたが、関西本線と環状線とに挟まれたデルタに貨物施設を設ける計画があり(現運動広場辺り)、また竜華客貨車区の増強計画や湊町駅を旅客線4線化する計画もあったようで、考えると、湊町駅が有するターミナルの種々の機能を移す計画や施策が、昭和の初めからなされきたのだと思えます。まあ湊町駅が2面4線になるのに可成りの時間を要したことになります。
 また40年頃はまだ今宮~新今宮駅間は複線で、環状線外回りが関西線を跨ぎ合流した形の新今宮駅も2面2線でした。一方今宮駅の手前では両線が分岐し、環状線内回り線が関西線下り線を跨いでおり、上りは北側を走っていたようです。関西線ホームが内側に挟さまれた形になったのは複々線化の時点です。そうしたことから考えるに、多分その複々線化以前の、関西線上りのホームの遺構ではないでしょうか。殆ど乗っていないのですが、確かに記憶では内回り線の北側には砂利が残っている幅のある敷地がありました。ただその辺りに高架用の柱が建ち並んでいた記憶もあるのですが…。

 SY様、どうもありがとうございました。
私が知る今宮駅は、複々線化後の姿だったのですね。環状線車窓から見えたホーム跡は、おっしゃる通り複々線化前の関西本線上りホームだったようです。保存していた「鉄道ピクトリアルNo520大阪環状線特集」に写真と記事があり、環状線が関西本線の今宮駅を挟む形態になったのは昭和43年と記され、それ以前の昭和36年4月の線路略図も掲載されていました。「関西の鉄道1大阪環状線特集」には、更に前の昭和34年12月にも、今宮駅改良工事に着手と記述されています。今宮駅から分岐していた大阪臨港線を利用して大阪環状線の工事をした時にも今宮駅の形態は変わっていたようです。
 今宮駅については、関西本線に乗る機会は無く、環状線はそこを通らなかったので存在すら知らず、複々線化後環状線が今宮駅を挟む形になって初めて知った次第です。現駅に切り替わる少し前に、旧駅とまだ細々と残っていた大阪臨港線へ向かう貨物列車を合わせて撮影する為に出かけました。その時には工事は進捗し、より古いホーム跡は無かったと思います。もっと早くに記録すべきでした。
 なおSY様文中の「ただその辺りに高架用の柱が建ち並んでいた記憶もある」については、Yahoo知恵袋で今宮駅に関するものを調べてみたところ、ここに勝手に引用できませんが、それらしい記述がありました。環状線開通の頃から現今宮駅とは別に高架駅の構想があり、それが中断されて放置されていたのではないかと言うことです。
 新今宮駅が2面2線当時のことは、幼少でしたが憶えています。あの頃は、南海(現阪堺電軌)平野線(1980年廃止)田辺駅近くに住んでいて、梅田へ出る時は、田辺駅から南霞町駅まで来て、新今宮駅の大阪環状線に乗り換えて大阪駅まで行きました。新今宮駅に停車するのは環状線の電車だけで、時折通過する関西本線の気動車や蒸機牽引の貨物列車を見送りました。そしてまだ南海本線の方は新今宮駅はありませんでした。

今宮駅の写真は1992天王寺2の記事にも掲げていることを忘れていて(うち1枚は湊町の記事と同じ・・・)、改めてこれを見て、特にホームの上屋あたりに哀愁を感じてしまいました。

こんばんは。湊町駅の事を調べてたら偶然このページを見つけました。
私の祖父母が近くに住んでいるので、幼い頃ベビーカーに乗せられて関西線の電車を見に来てました。微かな記憶ではOCATが出来て駅が縮小されていたと思います。
この思い出は私が鉄道を好きになったルーツと言っても過言ではありません。
とはいいつつ、幼かったのと生まれてから3、4年で地下化されたのであまり覚えていませんが…(笑)
とにかく、数少ない湊町駅の情報で求めていたものが見つかりました。ありがとうございます!
因みに2013年4月現在では湊町~今宮(地下から上がってくる所まで)は遊歩道になっていて、犬を連れて散歩されている方や、ジョギングをされている方を見かけます。

湊町(JR難波)の配線図と地下化工事中のホーム写真は、誠に懐かしい思い出です。昭和20年代後半の小学校に上がる前のころ、祖父に連れられて難波界隈に出かけた帰りには、いつも湊町から天王寺や平野まで汽車に乗りました。戦前の住まいの最寄駅が湊町や汐見橋だったからでしょう。天王子方面から5番線に頭から着いた蒸気機関車が、客車を切り離してから数メートル前進して機回し線に入り、機関車の先頭脇に乗った警手が緑の旗を小刻みに振りながら軽やかにバックして転車台に向かいます。転車台はそれほど立派なものではなかった記憶があります。余談ですが、昭和43年の6月はじめに、オール寝台急行の大和に乗って東京に行きました。すでに新幹線もあったけれど、東京到着が早朝で、上野から尾瀬方面への上越線始発急行への乗り継ぎに便利だったのです。懐かしく拝見しました。

godzillaさんの記憶は地上だった頃、そして西道頓堀さんの記憶は蒸気機関車が活躍していた頃、人それぞれに色々な形で思い出を残してくれている湊町駅なんですね。

先に投稿した東京行きの寝台急行「やまと」(昭和43年6月乗車)は、湊町から名古屋まではSLが引いてくれました。機種は記憶にありません。早朝に東京に着いたらもちろんELにかわっていましたが。当時は、天王寺(阪和線の高い位置ホームの方)から直通で白浜や串本新宮方面へのきのくに線(紀勢線)は、急行きのくにがディーゼル以外は東和歌山(いまの和歌山)まではEL(前後にデッキのついたチョコレート色)それから先は客車でC11などが引いていた時代なので、SLは珍しくもなかったです。大阪駅や京都駅でも福知山線のは中距離でさえもSLがふつうに多かった。昭和43年6月には湊町の転車台もまだ動いていたのですね。湊町のは、梅小路や北陸の糸魚川あたりのかつての立派な転車台とは比べようもなく貧素でしたけれど。「湊町発着」のやまとは、それほど長い期間運行されなかったそうで、駅の変遷をチェックされる方には参考になるかも。

西道頓堀さん、湊町発東京行きとは、今では考えられないような列車ですので貴重な経験ですね。
天王寺駅も、紀勢線方面のターミナルとしての地位はずいぶんと低下してしまったようですね。

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