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2008年7月10日 (木)

ちょっとひと休み2

前回は100回目でひと休みしましたので、今度は150回目でまたひと休みです。

●線路配線への興味
1971年頃の鉄道ピクトリアル誌に常磐線の複々線化に関する記事があり、その中に綾瀬か北千住~我孫子間の線路配線図が記載されていました。これにずいぶんと感動したのがきっかけかと思います。
それ以来ペンとメモ帳を持って電車の窓にかぶりつくようになってしまいました。

●信号装置
そんなことをしているうちに、次のステップとして、線路配線と信号装置は切っても切れない関係であると思うようになりました。どのようなルートで列車が通るのかを考えた場合、同じ線路配線でも信号機の配置によってかなり状況が変わってくるからです。
たとえば美濃白鳥駅は、信号機の配置がわかると各線路の使い方に意表を突かれます。

●連動装置
信号装置に興味を持ちだすと、次のステップは連動装置です。
ただ、このあたりになってくると、情報がほとんどありません。
そりゃそうですよね、フツー、興味持つ人いませんもの。

●とうてつ書店
昔、丸の内の国鉄本社のビルの中に「とうてつ書店」という本屋さんがありました。
国鉄本社の中ですので好き勝手に出入りできるわけではありませんが、守衛さんのところで「とうてつ書店に行きたい!」と言って手続きを行えば部外の人間でも入ることができました。
一般の書籍もあったと思いますが、おそらくは国鉄職員向けであろうと思われる、一般の本屋さんでは決して売っていないような専門的な書籍が置いてありました。まさに生唾ゴックンものでした。
ここで購入した「運転従事員のための継電連動装置の解説」という本がものすごく勉強になりました。その名の通り、信号扱所で信号てこや転てつてこを操作する人向けの本だと思われます。
JRになった今でもこのような本屋さんがあるのでしょうか。
今ではネットが普及していますので、本など探さなくても簡単に情報を入手できるかもしれませんが。

●線路無常
「無情」ではありません。平家物語の「無常」です。
極端な話、線路配線は毎日どこかで変化しています。せっかく一生懸命調べても、何年かたつと変わってしまっていたりします。
特に国鉄の一般車扱貨物が廃止された1984年以降は貨物扱いに関係する線路が数多く消えていきました。
電車しか走らない民鉄の線路配線には興味が沸かず、国鉄の線路配線に興味を持ったのは、貨物扱いがあったからです。
かつて貨物線群があった場所にビルや住宅がたっているのを見るとちょっぴり寂しくなりますが、これも世の流れなのですね。

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コメント

いつも楽しく拝見させて頂いています。
名古屋客貨車区では、轍査かんが写っていますね。ここのてこ集中は最近、動力化されました。
加太の鋼索連動装置と単灯形信号機、郡家と高砂の機械灯列、多気のブラケットなど、車両を写してたまたま写っていたというのではないので、感激しています。

吉田駅には、腕木式信号機の警戒現示があったようで、見てみたかったです。

まとめてコメント失礼しました。

線路は負けずに大好きなのですが、何故か信号関係には全くキョーミがありません。
棲み分け?(笑)
国鉄本社の中の書店には線路配線の本もあったのでしょうかねぇ・・・?

LUNさん、大丈夫です、やがて信号機の魔力に引きずり込まれますから。

LJさん、「腕木の警戒現示」というのはすごいですね。「注意現示」すらありませんから。ぜひ見たかったですね。
あと、「名古屋客貨車区のてっ査かん」がよくわかりませんでした。2枚目の写真?
美濃太田機関区で見たことはあるのですが・・・。

警戒現示腕木式信号機を簡単に。
メガネが3つ目(赤青黄)になっており、角度は通常と同じく水平と45°のみです。さらに腕木の下に、小さい腕木が柱の影に隠れています。上の腕木の信号灯具は、2灯分あります。警戒現示時は、上の腕木が45°降り、黄色メガネ部分のみ発光させます。下の腕木は45°上がって柱から姿を現し、これも黄色を発光させます。昼間はつまり、45°腕木大小2つの現示が、警戒ということです。やはり注意現示はできないところが面白いです。
てっ査かんは、下から2枚目の写真のキハ58の右横に写っています。
これからも楽しみにしております。

LJさん、ありがとうございます。
腕木の警戒現時はすごいですね。
てっ査かんも、ちょうどキハの日陰のわかりづらいところにあるのに・・・教えていただいて逆に私が感激してしまいました。
DD13の通票といい、すごいところを見ていますね。

申し訳ありません。
上野駅にこれ以上ご迷惑をおかけ出来ませんのでこれからは、こちらでお願いいたします。

鳥取、兵庫以西足を踏み入れたことがおありに無いと云うことですが、それは本当にもったいないと思います。

今日は一旦やめますが、出雲坂根、糸崎懐かしい駅はまだまだあります。

岡原さん、全然構いませんので。
(SYさんがちょっと意地悪なだけです・・・・って、SYさん、ごめんなさい!!)
なかなか参加できにくそうな駅ですが、コメントお待ちしています。

意地悪な(!)なSYで,謝する所は謝したいと思います。一応自身呉・広駅では糸崎機関区も念頭にあったのですが…。三原や福山駅を通過しても糸崎駅にはしっかり停車するという時刻表の表示に中高時代、不思議に思っていました。山陽本線はそういう駅がありました。けだし糸崎駅に関しては配線と管理局の権限範囲を知り宜なるかなと思いました。とあれ坂根駅や糸崎駅、恐らく三次駅等お詳しいことと思いますので、ささやかなお話でもご披露下さるようお願い致します。

SYさん、大変失礼いたしました。
確かに糸崎って不思議ですね。
普通だったら呉線列車は三原発着になるように思いますし、もしも伸ばすのであれば尾道まで。なんで中間の糸崎なの?って。呉線用の機関車だって、広島配置のほうが合理的のように思うのですが・・・。

出雲坂根など①

昭和52年11月、島根大学に試合に行くのに、芸備線、木次線、山陰本線経由で松江まで行くこととなった。
急行「ちどり」である。

私の場合、真性の「鉄」ではないので、ほとんどが記憶と(写真もほとんど撮らない)、後から読んだり見たりした情報によるものもあり、いろんなもの(都合のいいように解釈しているものも中にはある)が混在しており、今の時点で当時の状況のまま正確にお伝えし得るかどうか、聊か疑問な点があります。ご容赦下さい。

広島駅芸備線は、呉線(上り7番ホーム)と隣合わせのホームで、行き止まりの8番線と山陽本線に繋がる9番線から成り立っている。
呉線はホームの順番からいえば、6番ホームになるはずだが、5番ホームと6番ホームの間に、おそらく貨物線用と機関車の回送用線路がある為、一つ跳んでいるんだと解釈している。
下関発だったか、博多発だったか広島で2両(あるいは1両だったか?)増結する「あさかぜ」の寝台車両を牽引し、回送する場面を見たような気がする。
芸備線と呉線(正確にはまだここ広島駅では山陽本線であるが)とは隣どうしのホームなのに芸備線には一度も乗ったことがなく、初めての乗車である。三次すら行ったことがないのに、一気に松江までである。
「途中、方向が変わって逆向きに走るんでえ(広島弁そのままですみません)」と先輩だったか同級だったかの話に胸がわくわくした記憶がある。
三次までわりと快調に走った。急行らしい走りっぷりである。意外となだらかなのである。
三次駅は福山までの福塩線(正確には塩町であるが)と、江津までの三江線(当時はまだ繋がってなく三江南線だったか?)の分起点でもあり、当時の人口3〜4万の駅にしてはたくさんの線路があり、貫禄があった。(すみません。三次駅の印象はこのくらいです。しかし、中国山地の真っ只中にありながら、多くの線路を携え、意外と大きな駅である。同じ中国山地の真っ只中にある新見、津山とくらべても引けをとらないと思う。(でもやっぱり負けてるか)

備後庄原、西城を抜けていよいよ木次線との分岐点である備後落合駅に到着。
当時、この急行「ちどり」にもう一つ、新見行き急行「帝釈(あるいは「たいしゃく」)」が併結されていたかどうかは定かではないが、併結されていたとすると、一方はそのまま前進したはずである。
そうです。昔は広島から新見行きまであったんです。広島で新見行きの表示板を見ると何か不思議な感覚をおぼえたものです。さらに昔の時刻表を見ていると、何と新見・津山を経由しての姫路行き(逆だったか?)まであったんです。

こちら急行「ちどり」松江行きはここ備後落合で逆走となり、今来た方向の芸備線を左手に見乍ら右手にカーブし木次線に入って行く。
私は、この分岐点となる駅にたまらない魅力を感じる。
といっても、ただ線路がどう繋がっているか見るだけのことであるが、妙に安心し、分岐した先にある小さな駅からも東京へ繋がっているんだなと変に感心したりするのである。また、まだ見ぬあちらの風景に胸がおどるのである。

別れた「帝釈」は、新見の1つか2つ前の小さくて、静かで、ひっそりとした備中神代駅で、今は陰陽の大動脈となっいる伯備線へと接続する。
また、駅からすぐに分岐するのでなく、併走区間があればなお楽しい。線路配線図的にも絵になるのではないかと思う。
単線どうしのすれ違い、単線どうしの併走が見られるかもしれない訳で、居ながらにして大都市の雰囲気をあじわえることができる訳である。
尤も本数の少ない一地方線では可能性は限り無く0に近く、JRも乗客の中にこんなことを考えいる者がいるとは思わないだろうし、また、思ったとしても一個人の空想の実現の為に同時出発、同時到着なんてダイヤを組むことは有り得ない。
ただ、伊万里〜唐津間にある山本(あるいは本山?)駅近くは、伊万里〜唐津の線路と佐賀〜唐津の線路が結構長い区間併走しており、その可能性がないわけではない。
現に、2、3箇月前、唐津から伊万里まで乗った時は、同駅で数分後に唐津を出発した佐賀行きが後を追って到着し、暫く併行しての停車があって、同時出発ならおもしろいのにと期待していたが、こちらが先に出発し、夢が叶わなかったことがあった。
後ろを振り返ったが、一向に佐賀行きの列車は発車する気配は無かった。しかし、伊万里行きの出発が何らかの事情で遅れれば併走もあり得る訳で、今後の偶然に期待しよう。

さて、備後落合を出るとちょっとした山岳列車模様となり、ディーゼル機関のうなりと振動が激しくなる。これがまた心地いいし、何とも言えない旅情をかき立てる。
ディーゼル急行の定番であったクリーム色(肌色)と朱色の塗装は、この山間部でも、海辺でも、工業地帯でも本当に日本の風景によく似合っている(似合っていた)と思うのは私だけでしょうか。
ブルートレインの青、寝台急行のあの藍色っぽい深い青、特急列車の急行列車より少し格調の高いあの色もだ。全て自分にとっては一番落ち着く色・色合いだったのだが・・・・・・。

と、紅葉も終盤の中国山地の峠を越えた瞬間、俄かに雲が出、雨模様となった。
実際には、こんな劇的な変化ではなかったであろうし、広島県側は太陽のひかり降りそそぐ山陽、島根県側は雲湧き出ずる山陰と、峠を境に陰陽2種類の天気が同時に見えた訳でもないが、このように感じるほどの衝撃を受けた記憶は今も鮮明にある。
「出雲」、この地名ほどここらへんにぴったりのものはないと思う。
言い古された言葉だが、本当に「言い得て妙」の一言に尽きる。正に「出雲」だ。

三井野原を過ぎ、いよいよ本格的な下りに入る。トンネルも幾つかある。かなり速度は落ちている。左手は谷底のようなところで、右手が山である。さらに速度を落としたころ、左前方下に進行方向と逆の線路、それに続く出雲坂根の駅、そこからまた出雲横田、山陰本線宍道に続く木次線の線路とパノラマような世界が広がる。
第1回目の折り返しは、車庫のような建物に入り停止。運転士が今まで最後部だった車両に移動して逆向きに出発。
最徐行でゆっくり、ゆっくりと降りて出雲坂根の駅に到着。
出雲坂根の駅は、広島県側から降りた時には第2回目の折り返し地点となる。
1番ホームと2番ホームがあり勿論行き止まりになっている。どちら側のホームに着いたかまでは覚えていない。
跨線橋はない。スイッチバックがなければ片側1面のホームだったのであろうが、上りと下りの交換もあり2面のホームだった。
時間的には、ひょっとしたら、広島行きの急行「ちどり」と対面したかもしれないが、不思議なことに記憶がない。どこかで必ずすれ違っているはずなのだが・・・・・・。
出雲坂根駅から、出雲横田、宍道方面に向かっては、木次線そのものと今さっき下った(勿論こちらも木次線であるが)線路が矢羽根式(この名称が正しいかどうかは確信を持てがないが、昔見た本にそう記されていたような記憶があるのでこう書きました。線路と線路の繋が×印になっているもののことを言っています。)で繋がっており、どちらのホームからでも山陽側(備後落合・三次・広島方面)に登って行くこともできるし、山陰側(出雲横田・宍道・松江方面)に効率よく行けるようになっているのである。(なお、ここで登りとしたのは、所謂上り列車下り列車でなく山を登って行くという意味から。また、ここでの上り列車・下り列車はどっち方面をそう呼ぶのか分からない為でもある。)
と、線路配線図的にはこんな具合であり、非常にシンプルな構造だが、三段式スイッチバックを巨大な装置と見做せば、とてつもなく大きな駅と言えるのではなかろうか。
夢のような駅である。
また、年に1回くらい本当の夢に出てくる駅の1つでもある。


以上、「出雲坂根など①」お終いです。
あちらこちら跳んでとりとめもない文になりましたこと、お詫び申し上げます。


なお、当初は帰りも「ちどり」(こちらは夜行で広島駅着が朝の3時か4時頃だったと思う。)で帰る予定であったが、バスが私にとっては運悪くとれたので、2日後の夜半には広島に着いた。
それから夜行急行「ちどり」には乗る機会がないまま、陰陽を連絡する急行はなくなった。

妙に理屈っぽくならず、正確御自身の印象共々描写されて、中国山地を走り越える様を追体験した気になり、三次駅の描写、痛く染みいります。津山は転車台と扇形庫でアピールしようとしているし、新見は過去の実績があるし、陰の薄い三次駅の一端を触れただけでも幸いで、深謝申し上げます。くわえて「出雲」に関する描きには、そうなんだと共感至極です。寝台特急“出雲”を追いかけていた人達に、この表現の正確を抱いて頂きたいし、古人の描写とその表現力に改めて感心してしてしまう次第です。妄言が多い故、しっかり怒られそうなのですが、これからも種々雑多賜りますよう、切にお願い致し申し上げます。

呉線が話題になり嬉しい気持ちです。
(といっても糸崎は山陽本線ですが、以前は呉線の糸崎・広島間の列車は多く、呉線の延長と言っても差し支えないと思っているのでこの表現認めて下さい。)
私はJRの運行体系がどうだといった詳しいことは全く知りませんが、糸崎駅が起点になっている理由、蒸気の時代全ての列車が止まっていた理由として、
①構内が広く車両基地がある。
②機関車の方向転換が可能な施設がある。(今もあるかどうかはわかりませんが。)
③給炭・給水の施設があった。
④これは想像ですが、人の流れは三原・糸崎付近を境にして西は広島、東は福山、岡山になっているからではないでしょうか。
自分は、何となくそんな気がしていますが。
旧国名でも、三原、糸崎、尾道、福山は「備後」の国であり、三原の少し西、沼田川以西は「安芸」の国となります。
なお、糸崎駅は山陽本線が西に向かって建設されているころ、一時的ではありますが(といってもいつからいつまではわかりませんが)、終点だったそうで、もともとは糸崎駅が「三原」駅であったとのこと。
また、電化の際もここが電化と非電化の境だったとかが何かの本に書かれてありました。
これは、①②③の理由でもあります。

尾道は地形の関係で狭く、当時起点にはなり得なかっのではないかと思われます。

蒸気の時代は去り、三原駅に新幹線が止まり、貨物も少なくなるなど、糸崎駅の重要度は次第に低下したと思いますが、起点駅の地位はなくならないと思います。

自分は糸崎駅が一番駅らしい駅だと思っています。
どこもかしこも同じような駅ビルになり、線路は剥がされ・・・・ですが、ここには往時を偲ぶ駅らしい雰囲気がまだまだ漂っています。

糸崎駅に触れられる機会を与えて戴き、感謝しています。

TOさん、「ちどり」乗車記ありがとうございます。
出雲坂根駅では運転士さんは反対側の運転席に移動していたんですか。ふつうのスイッチバックでは移動しませんから、出雲坂根駅のスイッチバックの雄大さが理解できます。
SYさんのコメントどおり、大変読みやすく、楽しめました。
糸崎駅は一時は山陽線(山陽鉄道?)の終点だったんですね。そのあたりの関係で機関区などが設けられて「鉄道のまち」的な雰囲気になったんでしょうね。

糸崎駅②
中間点からの疑問に対して

時刻表で見ますと、上りでは「三原」→「糸崎」→「尾道」→「途中省略」→「福山」の順で駅が続きます。
駅としての「糸崎」は有名でも、都市・地名としては断然、圧倒的に「尾道」が有名です。と言うより、普通の人は糸崎は知らないでしょう。
一方、尾道は日本全国でも知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。
なんで中途半端な「糸崎」なんだ、「尾道」まで行けばいいのに、「尾道」まで行かないのであれば「三原」でいいじゃないか?と思われるのは極自然な疑問と思います。
他地方の方が時刻表を見られた場合、このような見方をされる新鮮さになんだか微笑ましい感じを持ちました。
自分は、昔(何時を昔と言うかは別として)から呉線で上りに乗る時は、ほとんどが「糸崎」行きか「三原」行き(岡山行きは1本ある)しかなかったのでこれがあたりまえと思っていましたし、疑問に感じたことはありませんでした。
また、岡山、福山方面から広島方面に帰る時も、「糸崎」まで来ればなんとかなる、といった感覚でした。

かなり無理がありますが、糸崎駅≒三原駅と思ってみてはどうか。糸崎駅≒三原駅構内車両基地でもいいです。糸崎駅・三原駅を一体の駅と考える訳です。
すると、糸崎行きは全てが三原行きとなり、疑問が発生しません。
糸崎・三原間は本来は構内の移動だが、ちょっと遠いので営業路線を使って下さい。駅間の接続に不便はさせませんから。
と、いうところでしょうか。
実際、三原駅で三原以東に行く場合、乗り継ぎにさほど不便さを感じたことはありませんでした。
糸崎方面から来た三原止まりの列車が、そのまま糸崎行きとして、ほんの2、3人が乗車してして(回送列車的に)折り返したのを見たこともあります。

呉線は別として前回の時刻改正から、三原以西から来る列車は全て糸崎までは行くようになったとのことで、ここでの屁理屈「構内移動」説?の出番はありません。
糸崎駅に於いては、糸崎以東からの列車は、三原より先広島方面行き、三原行き、糸崎止まりの列車が来ますが、糸崎止まりの列車の場合、三原まで行こうとすると先の屁理屈「構内移動」説?が生きる訳です。
なお、糸崎・三原の駅間は距離にしてわずか2.4㎞、所要時間は3分です。
構内とみるには確かに遠過ぎますが、JRの一般的な駅間の距離としてはかなり短い方ではないでしょうか。ちなみに、糸崎・尾道間は9.1㎞、所要時間8分とかなり距離があります。

また、意外なことに糸崎駅は三原市であることに間違いはないのですが、岡山支社なのです。一方、三原駅は広島支社。このことからのアプローチは、無理ですが、何らかの要因に繋がっていると思います。

一旦書き込んでから改めて考え直し、あういうことやこういう資料があったなどと枕上で思い起こすのが、自らの悪い癖なんだと近年反省を強めています。考えれば時刻表に表示されない運転停車も糸崎駅についてはありえたな、と思い直されました。…幾多の蒸機を擁した簡素な造りの扇形庫も既にもう消えたようで、いつもの嘆息です。広島貨タや機関区も昔は、と思ったり、海田市駅は高架化されるような感じですし、瀬野八を受け持ったかつての補機区である瀬野駅は台地上の住宅街への妙な新交通機関への通路になっているみたいだし、地方の中核都市の変容にも驚愕嘆息交々です。もしよければ、高架化以前の福山駅の様子をご存じであれば、片鱗でも伺わせて頂ければ。

多分TOさん、なるほど、おっしゃるとおりと思います。
だって最初は「三原」だったんですものね。
「三原」のつもりで構内を整備しておいて、延長の際に市街地のそばを通るので、2.4kmしか離れていないけれどなかば「旅客専用駅」的に三原駅を新たに設けた、と言うようなことなんですね。
・・・・でも、確かに糸崎は「岡イト」ですね。
呉線の気動車は広島運転所だったのでしょうか。
中国支社と岡山局が入り乱れる呉線、複雑ですね。

SYさん、広島や山口あたりは行ったことがありません。糸崎のほか瀬野、可部線、宇部線・・・個人的にはそのあたりの話、聞きたいですね。

正直地元でないので、現場のディテールが描き得ない身故、殆ど戯れ言として頂きたい。自身が有しているものは、まず瀬野駅北側にあった、EF59・61・67等が活躍した瀬野区の略図で、仕業庫2線・交検庫2線の狭長な補機区だったことが読み取れ、上下本線に夾まれた西側広島方に2線の引上線がありました。対八本松・西条への押上げを担いつつ、結果的には近くの西側の広島に吸収された基地なのですが、立地上ここに設けざるを得なかったと言えます。がもう“桃太郎”の時代なのでしょう。ついで、可部線については、新幹線の博多延長に消えた、横川駅の設備の様子を自身も切に知りたいと思っています。加えることが許されるなら、広島操車は初期には方向別・駅別のハンプを有して居たようで、宇野線とのデルタにある岡山機関区同様、宇品線とのデルタに扇形庫を有した広島機関区が芸備線方の転車台とは別に在りました。そこはやがて東広島駅になり、通過時わくわくさせるような下り線の部分的高架も設けられ、コンテナ対応設備に成ったようです。区は運転所本所脇へ集約されたのでしょうが、貨物社と旅客車の分離によって蛸足の旧運転所は分離されたようです。黒煙を上げていた箇所は市の繁華街近くにあった市民球場の移転先になり、現今歓声やどよめきを上げる場になりました。またしも嘆息です。

福山駅

申し訳ありません。
当時の福山駅、ほとんど記憶にないのです。
ですので、これでお終いです。
福山近辺の方か、あるいは当時備後路を旅された方で、この「懐かしい〜」を見られた方が投稿されるのを待つばかりです。

と言いつつも、ここを使わさせて戴き、福山駅関連について述べることをお許し下さい。
ご趣旨と違う方向になっていますので、ここにふさわしくない場合は編者の権限で削除下さい。単なる思い出話ですから。
なお、あつかましいお願いになりますが、如何せん古すぎることなので、どなたかご検証して戴くことができましたら、幸甚に存じます。
例えば、これから述べる蒸汽機関車が、電化されていた山陽本線を本当に走っていたの?とか、東福山駅のヤードはいつ頃からあったのか?などです。

福山駅は近年では、何回か乗り降りしたことはありますが、高架になる前、昭和50年頃以前の福山駅に降りたことは、1回しかありません。 しかも、小学校に上がる前で、昭和36、37年の頃のことです。
私の地区の小学校高学年と中学生とが、親善か何かでソフトボールの試合に福山に行くことになり、私も連れて行って貰った訳です。
試合を見るより、試合会場の校庭から見える列車ばかり見ていた記憶があります。
蒸汽機関車に牽かれる、50両もの長大編成の貨物列車。真っ黒い煙を吹き上げて、力強く進むあの勇姿です。呉線の、ほんの十数両の貨物列車とのあまりの違いに、感激が強すぎたのでしょう。
旅客列車も見ているはずなのに、不思議と蘇る記憶はこのシーンだけで、しかもシルエットでです。
本当に数えたのか?、少し後でその頃を回想して、そう思い込ませたのかはわかりませんが、今の記憶に残っているのはこの光景だけです。
しかし、こんな光景は別に福山でなくても当時はどこでも見れた光景で、ここでも福山駅が高架になる以前の・・・・の問いに反していますね。

福山市は、当時広島県では、たぶん呉市に次ぐ人口第3の都市で、もしかしたら既に呉市を抜いて第2の都市になっていたかもしれません。
高度成長期に突入した頃です。

福塩線の分岐点でもあり、それなりに大きな駅であったことは間違いなかったはずです。(今でもですが。)
それなのに、ほとんど記憶がないのは、糸崎駅や呉駅のように駅自体に何本もの貨物の線路があり、駅から直接の引き込み線があるのと違って、旅客主体の駅だったからではないかと思います。
こういったことも、福山駅に関心がなかった一つの要因だったのではないかと思われます。
線路配線図的に言えば、最低山陽本線3本、福塩線2本、計5本のホームはあったはずです。(ここでも断定出来なくて申し訳ありません。)
これは、最近になっての覚知ですが、貨物の線路に関しては東福山駅には何本もの線路があることを認識しました。結構広いのですが(と言っても現在の広島駅のヤードの半分もあるかどうかですが・・・・・。)、これすら昭和40年代には見ているはずなのに、当時の記憶にないのです。
当時からこのヤードがここにあったとして、貨物はこちらで担っていたのであれば、福山駅は旅客主体の駅だったとしてもおかしくはないと思います。ただし、福山・東福山間は4.2㎞、所要時間4〜5分と、普通の駅間の距離と思われるので、この想像は当たっていないかもしれません。日本鋼管へ続く引き込み線も、ここから出ています。
今でも多くの線路が敷かれたままで、剥がされていないことを祈るだけです。
最後に、帰りの列車のことですが(来た時は覚えていませんが、帰りは覚えています。呉線内は行きも帰りもディーゼル列車。)、三原までの帰りの列車は、間違いなく電気機関車の引く客車でした。
福山駅の真っ直ぐな1番ホーム(駅は南に面しているので、改札を抜けるとすぐホームであったことは間違いありません。)に颯爽と入る電気機関車。
もう一度乗ってみたい列車の一つですが、さすがにもう乗る機会はないでしょう。

思うところあり、糸崎に行って来ました。今、帰路の車内です。 まだ国鉄時代の、ちょうど24年前の9月9日に私は全国の機関区や転車台を求めての行脚を始めました。 縁あって三次からのスタートとなり、広島で新幹線からすぐにちどりに乗り換え、残暑の三次機関区、木次線、米子機関区を訪問したのを思い起こされます。  歩けば汗ばむ糸崎でしたが、やはり車両の出入りもそれなりにあり、糸崎機関区の残照を感じさせてくれました。 扇形庫の跡は民間工場となり遺稿らしき物は見受けられませんでしたが、転車台や扇形庫に向かう当時の線路はそのままあり、往時が偲ばれました。私は15年程前まで、それまで見た写真の背景に山並みあり、てっきり糸崎機関区は本線北側にあるものと思い込んでいましたが、たまたま訪れた関西の鉄道模型店の店主が呉線に精通されており、構内南側に機関区が在ったと知った次第です。 糸崎機関区最盛期の配線図や広島構内の配線略図が、現刊のN社RM誌別冊の機関区を扱った厚本に掲載されており、最盛期であろう鳥栖の空撮や各地の配線図も掲げてあり、その資料性と読物としてもシリーズ最高峰の内容となっているようです。特に広島構内の配線略図は必見で、数少ない向かい合わせの扇形庫の図は目を引きますが、何故か私は加太駅の写真に凄く惹かれるものを感じました。 余談ですが、前出の千葉からの続きになりますが、f54560zgさんは業界趣味誌の編集者と懇意ではないのかと勘繰ってしまうほど、ブログ記事内容に合致することが次々とあり、日々不思議に感じています…。

まず東福山駅の開業はS41年で、所有していた地形図でも旧日本鋼管の、トンネルをもつ専用線は確かに気になったものです。次いで福山駅の地平時の様子を描いて頂き、感謝致します。福山城の真南にある様子を想像し得、鞆鉄道や、備後本庄を通らず駅北部の岡を越えて駅に到達していた福塩線をやっと重ね合わせることが出来ました。…長大編成の貨物列車を牽引する蒸機、上りだとすると瀬野八を登坂して降りてきたのだと思うと、色めき立ちます。糸崎駅についてはその役割の延長上に、昼夜を分かたず忙しい東海道新刊開業以前の浜松駅の姿を本当は想像していました。さて、雲湧き霧めく神の宿る地、出雲を旅され、その出雲の松江の奥にある熊野郷から遷座したとも伝わる熊野三社の名から愛称を付けられた“はやたま(速玉)”を利用された由、きっとTOさんは神に導かれて旅されておられるのでしょう。

TOさん、私にも蒸機に引かれる貨物列車の記憶があります。小学校に入学する頃に都内の某貨物線の近くに引っ越しました。新居の窓から線路が見えるんです。多分D51が、しかも逆向きで引く貨物列車に強烈な印象を受けました。ところが記憶にある蒸機はこれだけで、あとは電機牽引ばかり。どうも、ちょうど引っ越した頃に貨物線が電化されたようなんです。当時は特別蒸機だけに固執していたわけではありませんでしたので、列車が見れればいいぐらいに思っていたのですが、今にして思えばもう少し早く引っ越していれば、などと思ってしまいます。

E10さん、帰路の車内ですって?糸崎ですって?
さらに詳細なレポートが提出されるのでしょうか?

SYさん、福塩線!
買収線区ですね。多分昔は雑多な電車が走っていたんでしょうね。たしか旧国末期には70系電車が走っていたように記憶しています。

f54560zgさん、ありがとうございます。
文面から推察するに、私より5、6才ご年配のことかと思います。
都内で蒸汽機関車を、私と同じような年頃に見られたということからだけの推察なので、お門違いでしたらご容赦下さい。なお、私は昭和31年、申年生まれです。
いつもどおり、前置きばかり長くなって申し訳ありません。
私が、あの年代、蒸汽機関車を見たことがほぼ、間違いでなかったことを証言して戴いたことに対しての「ありがとう」であります。
さて、鉄道ほどどうしてこんなに魅力があるのでしょうか。
列車、駅、線路、操車場、ポイント、連結器、連結の蛇腹、引き込み線、ダイヤモンドクロス?、汽笛、昔の列車内のアナウンスの前後にかかるメロディー、おいしくない駅弁、プラスチックの容器に入った薬缶で沸かした苦いお茶、冷凍みかん・・・・・・。
どれをとっても、懐かしいに集約されるからではないでしょうか。

全然、何を言っているかわからなくなりましたが、
f54560zgさんの投稿を見て、衝動的に書いてしまいました。
ご容赦下さい。

さて、瀬野近辺は、国道2号線がすぐ左を通っており(糸崎・三原・八本松方面から広島方面へ向かって行くとき、列車から見て国道が左手という意味です。)、広島まで車で行くとき必ず通るところです。
めったに車と山陽本線の列車が併走、あるいは、すれ違いになることはありませんでしたが、一度だけ幻のような光景を見た記憶が蘇りました。
特急電車に茶色の、瀬野駅で連結したのか、既に広島駅で連結していたのか定かではありませんが、電機関車が後押しをしている姿をです。
特急は、「しおじ」だったか「みどり」だったか名称までは覚えていませんが、こだま型のものであったことは間違いありません。
昭和も40年代後半だったかと思います。
幻だったのでしょうか。

TOさん、残念ながらTOさんよりちょっと若いです。
都内でも貨物線には比較的後まで蒸機が見ることができたんです。
TOさんに列挙していただいた魅力の中では、個人的には、列車内のアナウンスの前後にかかるメロディー、冷凍みかんが特に好きです(笑)。メロディーはケータイの着信音にしています(客車のヤツです)。
横軽は何度も行っているのですが、いかんせん遠すぎてセノハチは行ったことがありません。
急勾配区間ですから、特急とはいえ電機の手助けを借りなければならなかったんですね。ほどなくして電車をパワーアップ改造して後押しは廃止になりましたから、すごく貴重な「目撃」だと思います。
ついでながらこの電車、一時期ですが交流区間に足を伸ばすために、九州でも電機の手助けをもらっていましたね。

自身とすれば、門司から電源車を夾んで交流機が博多駅まで送られた姿が印象強く忘れません。瀬野八については、鉄道について深く物心つく前というか、手が十分伸びていない時で、補機が付いた記憶がなく、資料を殆ど完全に捨て去った現時点では辿りようもありません。半泣きで雑誌を切り、一部をファイルに保存するという行為は皆が為された行為かと思いますが、そこに立脚している自分の狭量や限界ですし、改めて知り直したい所です。ただ、九州に達し得なかった“しおじ”という名称に時めきを聊か感じたのですが…。

ちょっと一休み①で、「のん」さんの書かれた、「待避」に反応してしまい思わず書いてしまいました。
例によって、あっちに飛んだり、こっちに来たりで読みにくいと思います。
「待避」にかこつけ最後は、「音戸」乗車記になってしまいましたが、よろしくお願いします。

山陽本線でも特急・急行列車の全盛時代、普通列車は待避の連続でした。
新幹線博多開業以前は、山陽本線で普通列車に乗る機会はあまりありませんでしたが、昭和45、6年だったでしょうか「後楽園」に行った時、三原・岡山間を普通電車で往復したことがあります。
何駅かで、「次の○○駅では、後から来ます特別急行列車(急行列車)を先に通す為、○分停車します。」の決まり文句のアナウンスがあり、ひどいときには、特急、急行2本もの通過があったような気がします。
隣りの線を疾走する列車に、屈辱感を覚えたことでした。まあ、この屈辱感もいいといえばいいんですけどね。
夜間においては急行列車も同様でした。

寝台急行「音戸」。
「音戸」は「音戸」でも、新大阪-下関間の寝台専用急行の「音戸1号」でなく、寝台・古い客車(塗装は青く塗られていて少しは風格がありましたが、冷房はなく扇風機でした。)・グリーン車(1等2等の呼称がいつからこれに変わったかわかりませんので、ここではグリーン車としておきます。)・荷物車まで付いたあまりかっこうのよくない、京都-広島間の「音戸2号」です。「音戸1号」にはついに乗る機会はありませんでしたが・・・・・・。
いつ頃かはわかりませんが、下りは奇数番号、上りは偶数番号を使うようになっていましたので、下りについて言えば、「音戸1号」は「音戸1号」(新大阪→下関)のままですが、「音戸2号」は後の「音戸3号」(京都→広島)になっています。
上りも同様に「音戸1号」は後の「音戸2号」(広島→京都)に、「音戸2号」は後の「音戸4号」(下関→新大阪)になっています。(お祭りみたいで申し訳ありません。)

その「音戸2号」(後の音戸3号)に大阪万博の帰りに、乗ったわけです。
「これから参ります音戸2号広島行きは、○番ホーム本日最後の列車となります。」の場内アナウンスに何だか物悲しくなります。
先に出発した隣りのホームにいた博多行き「つくし」は寝台専用で、たぶん新大阪-下関間の「音戸1号」と同じような編成だったのではないかと想像します。
同じ急行といっても格の違いを見せつけられた感じがして、ここでも(心地よい?)屈辱感をあじわうわけです。
今になって思うと、この当時大阪から発車する夜行列車はほとんどが関門海峡を越えて遠く九州に行く列車、かたや、こちらは広島まで、しかも呉線回りですのでこんなものかと妙に納得していますが・・・・・・。
この頃の時刻表を見ますと、「音戸1号」も「つくし」の出発とこの「音戸2号」出発の時間帯に大阪駅にいるのですが、不思議と見た記憶がありません。
「音戸1号」を見たのは、通学の途中、山陽本線のダイヤの乱れで相当遅れて到着したのを1回見ただけです。
また、「本日最後の・・・・」のアナウンスについては、この後からもう一本臨時の「鷲羽52号」がありましたが、急行「音戸」にはこれを含め5、6回乗っていますので、このアナウンスを聞いたのは、3、4年前に乗った時のことか、これより後3、4回乗ったときのことだったかもしれません。
「鷲羽52号」が、違うホームからの発着であれば当日も同じアナウンスが流れたと思いますし、平常時では、間違いなく当日このホーム最終列車であったことは間違いありません。
とにかくこの場内放送に物悲しさを感じるとともに、大阪駅のこの番線の殿を務めるんだと思うと、へんに誇らしい気持ちにもなったものです。

格下の混成急行列車ではありますが、大阪近郊区間では次々に駅を飛ばし、車輪の音をリズミカルに響かせ、時に誇らしげに、時にもの悲しく汽笛を鳴らしての力走です。なお、本列車が終焉を迎える昭和50年には、新しい車両に変わっており、運転取り止め直前頃にも乗った記憶があります。
快調なのは姫路あたりまでだったのでしょうか。
いつの間にか眠っていましたが、相生・岡山間の山間部の吉永駅(たぶん。)(和気駅だったかもしれませんし、あるいは両方だったかもしれません。)に停車する頃目覚め暫しの休息です。
停車して暫くすると、ブルートレインが隣りの線を音をあげて通り去っていきます。
何でこんな駅に停車するのかなと思うような小さく静かな駅で、こんな場面が何度もあるのです。
大阪に来る時は、台風の影響で三原以東の駅々に、停車を余儀なくされていたブルートレインの面々ですが、今日は違います。颯爽と通り抜けて行きました。
暫くして、物悲しい汽笛とともにガクンと揺れ、ゆっくり、ゆっくりと走り出します。
客車の場合、このガクンと揺れるところが、また、魅力的なんですよね。機関車の力が先頭の車両に伝わり、最後部の車両に伝わって全部が動くまでのその間。連結器のガチャガチャと響く音が後ろへ後ろへと力と一緒に移動するその一瞬がたまらないのです。
カンカンと鳴る踏切の警告音と、赤い警告灯が右、左、右、左と交互に照らし通過を見送ってくれます。
そうしてまた眠りにつき、尾道水道が見えるあたりで目が覚めるのです。
この尾道に入る手前の景色見たさに、後年東京にいたときは岡山で新幹線から普通列車に乗り換えたり(岡山の操車場、糸崎機関区ももちろん見たいが為)、「あさかぜ」(こちらは、乗りたいが為でもある。)を利用したりしました。一度だけ、起きた瞬間もう尾道に着いていて、「尾道」の表示板が見えた時はがっかりした記憶があります。
尾道を過ぎると糸崎まで快調に飛ばします。最後の快走区間です。
糸崎では蒸汽機関車に付け替えの為暫く停車です。
汽笛も電気機関車の疳高い「ピーッ」から、蒸汽機関車の街全体に響く「ボォオーーッ」と、力強いが一層物悲しい音に替わり、出発です。
左手に、貨物か旅客列車の入れ替え用の為か一本線路があり、暫く並走します。そして、すぐに三原に到着。
三原からは、いよいよ単線の呉線に入り、沼田川の鉄橋から見える工場の煙突に「帝人三原」の青白いネオンサインが見えると、広島に帰って来たんだなあといった気分になったものでした。

SYさん、セノハチでは確か走行中の補機開放をやっていたんじゃありませんでしたっけ?横軽しか知らない私ですが、セノハチにはまた違った見所がありそうですね。
TOさん、大変楽しく読ませていただきました。
私はもっぱら宿代わりに夜行列車を利用するパターンでしたが、人気のない小さな駅に停車する夜行列車の雰囲気がよく伝わってきます。もうそんな雰囲気は味わえなくなってしまいましたね。
連結器のガチャガチャも同感です。機関士によってクセがあるようで、ガチャガチャする時としない時があったように記憶しています。
今後も期待しています。

TOさんの記述から自然と、山陽路特有の、松が植生している花崗岩から成る丘や山の姿が浮かび、映画のシーンのように次々相貌を変える新幹線の車窓ではない、風景の連続性を思い起こしました。さて、瀬野八の走行中の上り優等列車の補機解放ですが、確かにありました。EF59を一掃した頃の、先掲の略図(RJ-№211-‘84)には、サミットから程ない「八本松駅構内(山陽本線神戸駅起点280.2㎞付近『高速貨自動解放地点』の表示がある)で走行解放をおこなう」と記されており、同時に広島区EF61・67型の仕業を見ると、八本松で解放されたEF61は上り線側から八本松駅中線を経て下り線に出、瀬野方へ単機で送られた様です。仕業表は東広島ないし瀬野~西条が大半です…今頃になって記事をまるまる保存すべきだったと後悔しています。加えるなら、かつてD52型等が実際どの地点で走行解放が行なわれたのか自信がありません、西条を越えると駅間距離が長くなり。巻末にダイヤを掲載していた別冊群は今は処分しており、雑誌から切り離したダイヤを一応探して見たのですが、一時間目盛りの昭和5年でも昭和49年でも細かくはと見とれませんでした(地区別ではありません)。因みに昭和5年版で同様に蒸機による走行解放のあった現御殿場線では、先ず国府津駅に停車し、3列車を除いて山北駅に停車し、優等列車の次の停車は孰れも沼津駅になっています。山陽本線全盛の昭和49年版では保守間合いを除けば、東京~熱海間、米原~熊本間に隙間なく列車が走っております、但し昼間岡山駅の大阪・東京方はすいているのですが。見付け得た平成16年度版の上りについてはダイヤ上、貨物は例外なく広島貨タ・西条停車となっており、他方列車では番号の若い優等は運転停車も含め広島駅に停車し、西条駅には停車せず、糸崎駅にももう停車しない列車があります。ただこの図の上限は糸崎駅で、下限は北九州貨タになっています。牽引機の力量の向上と片付けて良いのでしょう。

SYさん、セノハチを話題にされていらっしゃったのに、突然、私の思い出話「待避 音戸乗車記」を入れて申し訳ありませんでした。

こんなにも、瀬野・八本松間が有名、というより話題になる場所とは思いもよりませんでした。
後押しの機関車を、走行途中で切り放すことは以前何かの本で読んだことはありましたが、あまり興味が持てませんでした。
何故か?それなりに思い当たるところはありますが、本題と外れますので止めにしておきます。

こんな私が瀬野・八本松を語る資格はありませんが、この区間は、車で広島へ行くときは必ず通るところでありましたし、小学校に上がる前の一頃は、バスの運転手さんと縁あって毎日のように広島まで連れて行ってもらったこともあり、何十回と通ったところですので、どうしても書いてみたくなりました。
セノハチについては、鉄道誌とホームページからのものですが、「どこで切り放していたの?」の回答らしきものがありましたので引用して書いてみます。
既に解答、解説までなさっていらっしゃるのに、決定版でないことご容赦下さい。

2箇月前に購入した、「国鉄時代 2009-8月 SUMMER vol.18」(発行所 ネコ・パブリッシング)と、ディーゼル特急「かもめ」を検索している時にあった「九六式鐵ちゃんのホームページ-山陽本線のC62〜かもめ〜-」にあるD52の話ですので、既にご存知のことかもしれません。
既に読まれていたときは、ご容赦下さい。

鉄道誌「国鉄時代」には、
「細川延夫さんのアルバムから 山陽路の汽車」と書かれ、昭和28年から30年までの「かもめ」を中心とした写真が掲示されています。
やはりその中で一番いいのは、糸崎・三原・八本松方面から広島方面に向かって瀬野駅に入る手前の、国道2号線(左手)と隣り合わせで併走する山陽本線(右手)上り(八本松・三原・糸崎方面へ向かって来る)を、後押しの付いた、「かもめ」がC62 15に牽かれて坂を登り始めるところの写真でしょう。正面からの写真です。迫り来る写真です。
憎いことに、その数ページ後に、同じ列車ですが今度は、去り行くところ(八本松・三原・糸崎方面へ去って行くところ)が写し出されているのです。
補機の切り放しについては「はやぶさ」の写真もあり、そこのところで解説されています。
それによると、「八本松で走行中に解放するため・・・・・。」と書かれてあり、手前とか、過ぎた頃の文言がないので、八本松駅構内と読めないことはありません。
「九六式鐵ちゃんのホームページ」では、「この「かもめ」の補機は、八本松駅の構内で走行中、自動解放をやるので・・・・・・。」と制動貫通試験の解説があり、数行後に体験談として、「そのうち頂点となる八本松駅構内を過ぎると、本務機が一寸速度を緩め加減した時、何の挨拶もなくD52がサァーッとばかり過ぎ去って行きました。」と書かれてありました。(昭和35年12月8日)
こちらは、乗り遅れそうになり、最後部の荷物車に乗ることとなった筆者が、D52を間近に見てのもので、初めのうちこそC62に付いて行くのが精一杯という感じが、後には、「押し上げられる前後動が伝わる」のみごとな表現で同機関車の力強さ、躍動感を言い現わされています。
私は、八本松駅と西条駅の中間位(少し八本松より)かと思っていましたが、意外と構内と言ってもいいくらいだったことに驚いています。
また、切り放しをしていたのは貨物列車で、特急、急行列車は八本松駅か西条駅で停止して切り放ししていたのかと思っていました。さらに、急行以下は瀬野駅での補機連結ですが、特急は既に広島駅で連結していたとは、三重の驚きです。西函の名称があったことも初めて知りました。

余談ですが、「国鉄時代」の購入動機は、博多駅前の紀伊国屋でたまたまめくっていたところ、急行「安芸」のDVDが付録に付いていた為です。

SYさん、TOさん、今頃こんなことを聞いて申し訳ないのですが、セノハチでの走行中の補機開放って、今でも行なわれているのでしょうか?そうなら見てみたい!けど、ちょっと遠すぎる!
閉そくとか、どうしているんでしょうか。

‘05年のダイヤから読み取れることは、貨物列車は例外なく西条駅に停車している以上、補機の走行解放は最早ないということになりましょう、ブルートレインはもう…、ただ地元の者ないので。次いで閉塞についてですが、書き込んだ時点ではぼんやりと特認区間くらいだと思って居ました。些か調べた見た点では、八本松駅第一場内信号~第二信号内で走行解放する、ということで、八本松駅構内が略図より思いの外長いのだと思い知らされました。因みに先の解放地点280.2㎞はその後に三原駅の高架化に伴って頼兼トンネル(‘91年山陽本線分)が設けられ、0.6㎞営業キロが短縮され、上記からその数字をひいて頂きたく思います。なお八本松駅の中心は現今278,9㎞ですから、停車場中心から0,7㎞の余裕を有していて、サミットと念頭においても十分な制動距離と思われ、何故同駅の東部に機関車引上線が積極的に設けられなかった訳なんでしょう。これで答えられたどうか…。

補機の走行中の開放は今はもう見られないんですね。運転上興味ある点がいろいろあったのですが。
もっとも停車中の開放でも面白みはありますね。
昔東北線の金谷川駅で上り貨物列車の補機の開放シーンをビデオに収めようとホーム先端でカメラをまわしていました。ところがED75の重連でやってきた貨物列車はいつまでたっても何も起こらず、結局そのまま発車してしまいました。後から知ったのですが、後部補機だったんですね。お恥ずかしい・・・。

昭和52年4月の広島鉄道管理局運転取扱基準規程によりますと第2款 八本松における通過列車の後部補機機関車の解放方(後部補機の機関士の取扱い)第38条八本松を通過する旅客列車又は特別急行貨物列車で、運転中に後部補助機関車(以下「後部補機」という。)を解放する場合、後部補機の機関士は、次の各号に定める取扱いをしなければならない。
(1)列車運転中自連解錠標の表示箇所においては、自連を解錠すること。ただし、特別急行貨物列車で、電・空付自動解放密着式自動連結器(以下「電・空付連結器」という。)を使用する列車は、運転中、自連自動解錠標の表示箇所において自連を解錠すること。
(2)自連が解錠し、自動ブレーキが作用したことを確かめた後、すみやかにノッチオフし、停止すること。
(3)自連を解錠したときは、運転用無線電話装置によりその旨を本務機関士に連絡すること。
(4)後部補機を解放し、停止した後は、入換信号機(11L)の進行信号の信号現示があるまで、運転を開始してはならない。ただし、停止後、入換信号機の信号現示の確認が困難な場合は、前途の見透しの範囲内に停止することのできる速度で、信号現示が確認できる位置まで運転すること、このときの運転速度は、1時間15キロメートル以下とする。
とあります。
その他にも後部補機を解放してはいけない場合とかが第39条以下に規程されています。

T.Mさんは相変わらずスゴイ!
現場を踏まえた規約には抗いようもありません。‘02年3月で開放は廃されたようで、確認の意味でYouTubeを落とし見て、先ずR=300の連続とかつてのスイッチバック式の信号所跡に眼を奪われ、線形に興味が単純にのる自身の底が知れました、最初は軌道になります。両駅間上り10㎞余22.6‰上り勾配、ダブルカテナリーで負担に耐え、14閉塞区間を有しているようです(『垂水運転所』より)。航空写真や地形図まで踏まえると、地形上純粋なサミットは八本松駅のホーム西端くらいで、以西は瀬野川流域で、国道2号線に面した現今スーパーらしき大きな建物の北側に位置した補機解放区間は、どうも極めて緩やかな上り勾配の感じです(勾配図を記した図書をそろえておけば良かった)。この区間には補機解放限度指定という限界指標もさらに東側に置かれていたようで、動画上T.Mさんの指摘通り、Tubeから3基の入換えが見とれます(信号機に弱いので)。一旦八本松駅手前で停止し、レベルか緩やかな勾配を上りつつ補機は八本松駅に進入したのだとT.Mさんの指摘に従いうるなと思います。蒸機もこういう扱いだったのかと思い知らされました。蒸機は八本松~西条駅間の下り勾配で為されたと漠然と想像していた自身は日常の物理に縛られていたのでしょう。また配線図を見てダイヤを想像する自身ですが、八本松・西条駅から瀬野ないし東広島・貨タへの単機回送に今まで言及できなかったのが未熟、寸足らずで…。勉強させて頂きました。

T.Mさん、貴重な資料ありがとうございます。
これを拝見して、またさらにいろいろ疑問が・・・・。
・自連の解錠は当然運転室からの遠隔操作ですよね。そういう装置が装備されているんでしょうね。
・ブレーキ管はどうなっていたんでしょう。接続していなかったんでしょうか。
・「自連が解錠し、自動ブレーキが作用」とはどういうことなんでしょう。
・自連を解錠して補機が離れた直後に何らかの理由で列車が緊急停止したらどうなるんでしょう?
・ATSは当然OFF?
うわぁ~、すみません、もしわかったら教えてください。

SYさん、YouTube、私も見たい! だけど、うまく探せませんでした。教えてくださいっ!

f54560zg様こんばんは。
参考資料が運転関係の規程集ですので不明の部分がありますが瀬野八間の専用補助機関車には当然エアーによって自連を解錠する装置がつけられています。
補機のATSは切でなければ運転できませんので解放後の本務列車の急停車などは、目視で対応するしかないでしょうね。
ブレーキ管ですが広島鉄道管理局運転取扱基準規程によりますと
(補機の連結位置)
第11条 次の区間において使用する補助機関車の連結位置は、特に指定する場合を除き、列車の最後部とする。
山陽本線 広島・西条間(上り列車)
(注) 八本松を通過する旅客列車及び特急貨物列車で、運転中に後部補助機関車を切り放す列車は、後部補助機関車と後部緩急車とのブレーキ管は、電・空付自動解放密着式自動連結器を使用するものを除き、これを貫通させない。
と規程されていました。

先程の投稿の追加です。
広島鉄道管理局特殊運転取扱基準規程というものがありました。その中の第24条2項に以下の通り規程されています。
(2)自連が解錠したことを確かめた後、直ちにノッチオフし、すみやかに単弁急ブレーキ(総括重連の場合は、自弁による全制動)により停止すること。ただし特別急行貨物列車で電・空付連結器を使用している列車は、自連が解錠し、自動ブレーキが作用したことを確かめた後、すみやかにノッチオフし停止すること。
とありました。

正直力不足で、如何ともし難いです。
http://www.youtube.com/watch?v=4E7bGsCLl1g
で上り115型9分余昼間時の瀬野八登坂前景が眺めうると思うのですが、動画については全く素人なもんで…。コレで良ければで、まして況んやお眼鏡に適い、得心がいかれるかどうか、全く自信がありません。ここんところ自身の無知や早合点ばかりが、前景に躍り出ているような…。しばらくか一旦、無知の足を綺麗さっぱり洗う必要も感じています。皆さんの力量を見習うべく勉強し直すべき何でしょう。

T.Mさん、的確なご回答大変ありがとうございます。
よ~くわかりました。運転の特殊性が良くわかります。

SYさんも大変ありがとうございます。
電車は軽やかに走り抜けているように見えますが、おっしゃるとおりカーブの連続ですし時折視界に入る勾配標はみんな腕を上げていますから重量列車ではキツそうなのが理解できます。

それにしても前面展望というのはいいですね。私は板谷峠で客車の最後尾にカメラをセットして録画したことぐらいですね(機関車なので前面はちょっとムリです)。カメラだけデッキに置いて私はそしらぬ顔で客室内にいたのですが、あとで再生したら、乗車してきた女子高生の「こんなもん撮って何がおもしろいのかね?」という声がしっかり録音されていました。

もうついていけません。やはり、わたくは、しんせいてつではありませんでした。
でも、てつのみちはさいこうです

TOさん、すみません、ちょっと「てつ」的な話が多かったですね。
でもTOさんのお話は好評でしたので、お気になさらずに今後もコメントいただけるとうれしいです。

現場の仔細を十分把握していない身とすれば、西函について正直軽く流して、いなすつもりでした。なんせ、何せ時系列も現場も表現し得ないからです。しかし、です。TOさんの体験に基づいた話や古い優等列車名には関西に棲息する者の血が、それを越え刺激的な記憶が呼び起こされました。多分そういうものを自身教科書的に整理していない故でしょう。血が迸ったものとして御理解下さい。自身がこのサイトで拝見している限り、古い時刻表や図書を有しおられる方から、記憶の懐かしみを語られる方までおられ、かつてはそうだったんだ!(共通語になって)と伺って雑多幾重にも想像したり再構成を試みたりです。視点は自己が絶対的に唯一有しているのでは無いと、図面にだけ頼っている未熟な小生は正直思っており、この旅路やこの駅はこうだったとお聞かせ願えれば、と切に思います。自身は「やくも立つ」と枕詞で称される出雲の景色の描写とスイッチバックの描写が、かなりお気に入りなんですが。お気を悪くされないよう、加えて旅路の様子など窺えれば、化学反応的に想像させて頂きます。これで悪しからず。

f54560zgさんのblogと、コメンテーターの皆さんのファンとしての私は、どんな些細なことでも文章にして頂き、以前の私がそうであったように、コメントを躊躇されている方も、ドンドン(ビールメーカーのCMではありませんが)投稿して頂き、様々な知識やご経験、思い入れなどをご教示して頂きたいと思います。 鉄道趣味は、知ってる方は情報の確認共有をされ、知らない方は伝授され、その幅を拡げられ、その趣味としての奥深さを感じつつ造形を深められればと感じます。 私なりのコメントは耳障りな拙文ですが、今後もご容赦頂きたいと思います。 いつものことながら、f54560zgさんの見事な仕切りとタイムリーな記事に感謝しております。 で、f54560zgさんって、業界趣味誌の編集者と関わりがないのでしょうか? あまりにもブログ記事内容と、その都度の趣味誌の編集内容が合致し、「ほんまかいな?」と何度呟いたことでしょう…。

E10さんの構成文、横柄ですが、自身称えたいと思います(f54560zg こその承認あればなんでしょう)。すごく綺麗な文章をお書きになるなんて、この場や多要素があろうとかんがえるとですがl、総てこの場の「完全なる」要素をフォローアップして下さいね!!!!

E10さん、「横柄」という語はけして下さい。心中間違いなく今後知見を披露される方の、絶対的お一人であることはまちがいないでしょう、新たな知見を賜りますように。

f54560zg さんに対するお願いなのですが、チワワのような狭い空間を何卒確保指定していただけ得ますように。この場で、E10さんやTOさん等に対する謝意がなんとか呈しうるようなl、そんな空間を、です。寸足らずを補いうる場の提供を!自らは正直寸足らすす。

まずはTOさんへ。
SYさんやE10さんがおっしゃるとおりで、昔懐かしい情景を思い起こさせていただけるコメントは大歓迎です。特にTOさんの文章は大変すばらしかったです。
このブログには「てつ」的な面も多々ありますが(その多くは私が撒き散らしているのですが)、そんなの関係なしに、写真の背景に移っている建物を見て懐かしい気持ちを感じていただけている方もいらっしゃいます。気が向いたら続編お願いします。
E10さん。私は特に業界趣味誌の編集者の方との関わりはありません。もし何かあったとしたら、それは偶然ですね(笑)。
SYさん。いつもいろいろありがとうございます。「空間」とは具体的にはどのような場でしょうか。他の方のサイト・ブログで見かける「掲示板」のようなものでしょうか?

他者の視点並びに知識・認識は、自体貴重で尊重だけでなく、そこから学んだり、想像したり、自らの関心の扉を開けたり、また同時に自己の不完全さについての謙虚さを弁えておくべきでだと学ばされます。さて、その意味から、一寸落胆した為、呑みながら考え込み、結果最終的には支離滅裂な文を記してしまいました。大変失礼で平身低頭、穴があれば頭を埋めてしまいたいほどです。かつては殆どタイピスト然として、思考をそのまま文章化していた時期もあったのですが、その悪い姿勢の断片が出てしまいました。長文になりがちに成るのはその為です。改めて猛省と共に失態を陳謝致します。空間は平面勝ちになる場をより立体的に、ぐらいにご理解下さい。チワワは不適切な形容として無視して頂けますよう。酒量を減らせねば、です。

みなさん。
私の不用意な、一文でご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。でも、温かい激励にもう一度あまえさせて戴きます。
特急「さくら」(九州新幹線)
みなさんご存知のことと思いますが、私は、この名称は好きですが何故長崎の人は反対しなかったのでしょうか?
何故「富士」にしなかったのでしょうか?

今日は、ここまでにします。

なかなか、「はやたま」号のこと書けません。
勝浦駅が、あんな配線になっていたなんて、全く覚えていませんでした。

SYさん、ヨッパらってるんですか?・・・うらやましい・・・・。
TOさん、いらっしゃいませ。不用意でも何でもないと思いますが・・・。
すみません、「さくら」って、初めて知りました。
「はやたま」期待しています。

言葉不足でした。
「さくら」
九州新幹線で、鹿児島中央駅から新大阪駅まで直通する予定の列車名称がこれに決定したと、特急「みどり」に先日乗車したときJRの広報誌で知ったくだりを書いたのですが、何のことかお分かりにならなかったようですね。(当然分かる訳ありませんよね。)
寝台特急「さくら」、東京-長崎・佐世保、乗車したことはありませんが、あの「音戸2号」を岡山の手前あたりの寂しい駅で抜き去っていった栄光の「1号」列車。
この名称の復活は大変喜ばしいことなのですが、どうしても「さくら」といえば、東京-長崎・佐世保のイメージが強すぎてあのような記述となった次第です。

「富士」なら、元々、東京-西鹿児島を走っていたのでいいんですがね。
でも、新大阪からでは富士山の下を通らないのでこの名になったこともむべなることかと、冷静に考えると変に納得しているところです。

と、くどくど書きましたが、本当はブルートレイン「さくら」の話題にならないかな、早岐駅の話題にならないかなと期待していたのです。誘導尋問だったのです。

懐かしい駅的にいえば、「早岐」、いい駅ですよ。昔は長崎本線だったのも信じられます。
また、蒸気機関車が後ろ向きで「さくら」を佐世保まで牽引する写真を見ると、泣けてきます。

追伸
佐世保駅にも、早岐駅にも転車台がなかったんでしょうね。
佐世保駅。
高架になって情緒無し。
早岐駅。
なんとなく昔のままで、いいですよ。

私の別名 C54 に因んで、ちょっとひと休み54番目のコメントです。 佐世保は判りませんが早岐には転車台がまだ残ってると思います。 3年程前に現認したと思います(得意の勘違いでなければいいのですが) 早岐機関区も国鉄時代の末期に一度だけ訪問しました。 以前は煉瓦製の立派な扇形車庫があり、構内配線改良により転車台は移設されたようですが給水塔は残っていたようです。 早岐機関区は、ほんのわずかな期間だけ鳥栖機関区流れのハドソンC60が配置されていましたが、C57、C11、8620等が多数配置された長崎本線の要衝だったようです。 C11の寝台特急さくら牽引も最初だけC11にさくらのヘッドマークが付いて、すぐに付かなくなったとか‥。 長崎機関区、佐々機関区、西唐津機関区、(佐賀、伊万里、東唐津も)黎明期の浦上機関庫など、西九州地区も魅力的な地域です。(肥前山口の三角線も)  さくらの命名に関してですが、いつもながらの妄言になりますが、富士 はやぶさ あさかぜ 等の列車名は、いつか実現するかもしれない、東京-鹿児島中央間などの新幹線や、新青森-博多間などの新幹線ナイトクルーズトレインの列車名が似合っているかもしれませんね。ですので、ほんとは消去法で さくらが栄冠を勝ち取ったのかも…。

お詫びです。
出雲坂根①で、急行「ちどり」松江行きと記述しましたが、「米子」行きでした。
また、出雲の描写で付け加えたいことは、分水嶺と、三井野原の向こうから、寝台特急出雲のヘッドマークの雲が真っ黒に湧き出でていたことを表現しきれなかったことです。

今、「早岐」の駅にいます。
キハ671、キハ661の2輌編成です。
電化されているのに、昔の急行型列車に乗れて幸せです。

見渡すかぎり、転車台はありません。

ホームに洗面台があり、往時の姿が偲ばれます。

線路は何本もありますが、からっぽです。
貨物がないとこんなものなんですね。

でも、駅らしい駅でした。
間もなく、佐世保に到着です

皆さんの書かれる字面が良いですよね。佐々・西唐津・高架化で消えた佐賀、両国駅で触れようかなと思った東唐津(ずっと構造は不明でした)等、加えて浦上機関区(当然旧長崎)の存在を聞いて、わぁ~です。佐世保駅は高架化され、ホームの多さに首をかしげたくなる構造で、他方早岐のやつれようは,です。或る意味、早岐と熊本が鳥栖駅での仕事を要求していたような、そんな時代もありました。

早岐や佐世保、関東人の私にはちょっとつらい場所ですね。個人的には佐世保よりも早岐のほうがずっと興味深いです。早岐はスイッチバックの駅ですし、かつては(今は知りませんが)機関区と客貨車区があって、特に客貨車区にはブルートレインも配置されていましたし。一時期は早岐配置のブルートレインがはるばる青森まで顔を出していましたね。今でも列車の分割・併合が行なわれているようですから、その点でも面白そうです・・・・・って、TOさんはどこに行ってるんですか?

情報と言うものは、やはり量より質が大切であり、早岐駅に関して正確さを欠いていたことをお詫び致します。 私の記載では、長崎本線は誤りで、佐世保線と大村線が接続する要衝と記するべきでした。 また早岐駅の転車台も、現況を確認せず記したことは迂闊でした。 TOさんの現場リポートに感謝致します。 2007年の5月に乗り換えで早岐駅を訪れた時は、改札口から正面左手に望める辺りに、水タンク部分のない煉瓦製給水塔、移設された転車台と、大村線諫早方左手のヤード端に、DL DC検修庫が在りましたが、目撃してから僅か数年で転車台が姿を消してしまったのは残念です。 何かの節目で、長崎駅-佐世保駅間を大村湾沿いに復活SLハチロクの58654が走り、佐世保駅から早岐駅までバック運転で戻り、旧早岐機関区の転車台でハチロクが転向する姿を見たかったのですが…。 また早岐配置のブルトレですが、小学生の頃たまに見ていた関西-九州ブルトレの屋根に雪が積んでいて、なんとも不思議な気分になったことを思い出しました。(日本海縦貫線のブルトレと共通運用だったのですね) 貨物列車の雪には北国からかな‥と、違和感は感じませんでしたが、 雪化粧のブルトレや貨物列車に遭遇すると、その場にいた子供達が「雪や!雪や!」の大合唱となり、たまに屋根から飛び落ちる雪へ列車通過後に一斉に駆け寄り、その雪を奪い合ったことも今となっては懐かしい思い出です…。  SLファンの中でも、最も評価の高いとされるC59に因んで、ちょっとひと休み59回目のコメント(意味不明ですが)です。

E10さん、私も小さい頃は東京在住でしたので、やはり屋根に雪を満載した貨物列車を見かけると異常に興奮しました。いったいどこから来たんだろう、って思いましたね。
いよいよハドソン領域に到達しましたね。とりあえずC59の従台車2軸化C60はゲットしました。

呉線-「安芸阿賀-呉」間にある休山の下のトンネルの話-
突然、衝動的、脈絡無しで投稿します。

呉線「広」駅から「広島」方面へ西へ向かうと次の駅は、「安芸阿賀」で(正確には数年前に新設された「新広」駅を経てだが)、そこを過ぎるとすぐに呉線で最も長いトンネル(中国地方でも結構長い方になるのではないかと思う)に吸い込まれていく。
夏、まだ冷房化されていない列車でも、窓を全開にしておくと半ばまで来るとひんやりした。
このトンネルの正式な名称は知らないが、呉の市街地と阿賀・広の間に聳える「休山」を横断する長いトンネルである。
小学校の頃、このトンネルに入ると楽しみにしていたことがあり、突然思い出し書いた次第である。
その楽しみとは、たわいもないことで、誰もが一度や二度やった経験のあることと思うが、車両の最後尾から後ろの光景を眺めることである。
このトンネルは、広・安芸阿賀方面から入ると呉側の出口直前まで一直線で、出口間際で緩やかに左にカーブしている。
トンネル突入直後は、入口(出口)から風景がよく見える(風景といっても駅の端、踏切を横切る人や車といったところだが)。その風景も次第に大きなただの光となって、それが段々と小さくなっていく。
トンネル内の照明が後へ後へと列車の轟音と共に飛んで行く。
その轟音と照明の飛び去り方で実際には大した速度ではないのだろうが、スピード感溢れる走行感が堪能できる。
行けども行けども、入口(出口)の光は小さくなるもくっきり見え、なかなか消えず闇とはならない。
まだ見える。まだ見える。あーこのまま極限まで、と願うところ本当に針の先程の光源となったところで今までの規則正しいレール音から少しガタガタとしだし左にカーブしついにその光は見えなくなる。
そして、トンネルの闇から光いっぱいの市街地に放り出されるのである。
と、これだけのことであるが、針の先程の光源が見えなくなる瞬間に絶妙のタイミングで列車が曲がるこの何とも言えない残念感と、究極感が味わえ、結構楽しめる。
トンネルを出ると緩やかな下り坂で、今度は右に緩やかにカーブし直線になるころ、海上自衛隊呉教育隊の建物、IHI(石川島播磨重工業)のドックが見え、かつての「軍港呉」といった雰囲気が味わえる。
昔は、その直線になるころ左手から旧海軍工廠(だと思う)から来る引き込み線と併走となり、時には貨物の入れ替えか、赤色のディーゼル機関車に牽かれた貨物車と隣り合わせとなり、わくわくしたものだ。
呉線に乗る機会があれば、この場面(引き込み線はもはやありませんが)を味わって戴きたいと思うところである。
心地よいカーブと速度、車窓である。
この休山のトンネルの光は、呉から安芸阿賀・広方面へ行く時、どう見えるかは分からない。
入った瞬間は右にカーブしているので、明反応?暗反応?かで先述の光源がすぐ現れるかどうか。
こちら側からの展望はしたことがない。

追記
呉を出ると海田市までは単線ながらトンネルは必ず2つあり、潰えた複線化の跡が、「兵どもの夢の跡」となっている。

TOさん、読んでいて何ともいえない懐かしさを感じさせてくれる文章をありがとうございます。
トンネルで列車の最後尾からの光景を眺めた記憶はあまりないのですが、かすかに覚えているのは碓氷峠でしょうか。下り列車の場合は最後尾に荷物車やら補機が付きますので、展望可能なのは上り列車のみ。最初は馬蹄形をした光が、小さくなりながら、同時に下側が削られていくんです。左右方向のカーブではなく上下方向のカーブのためにさえぎられていくわけで、碓氷峠の急勾配を実感できたような記憶があります。ただ、最後尾から景色を眺めるのは(当時は旧型客車で、ドア等はすべて手動)、何となく景色に吸い込まれそうで(すなわち列車から振り落とされそうで)ちょっと怖かったですね。

ここんところ隧道めいているのですが、トンネル内の光源の消失という、すこし不安げになるというか、切ないというか、子供の一つの原体験です。その感じを追体験できました。呉市には確か呉市電がかつて走っていて、黒瀬川のなす広方へと至るのに、大きく北側に張り出していた図を思い出しました。頭の中は地形図しかない自身の記憶では、呉線の方は確かに直線の長大トンネルでした。考え直せば向かいは江田島ですし、海に面していながら、呉は山々に囲繞されている風景に抱かれていることを再認識しました。

トンネルで思い出したことをひとつ。
とある年の夏、長野から旧型客車に乗って篠ノ井線を松本方面に向かっていました。暑いので、窓をあけて手を出したりしていました。やがて列車はゆっくりとした速度で冠着トンネルに突入。トンネルの中でも手を出したりしていたら、何かが手に当たりました。あわてて手を見ると真っ黒。窓から顔を出して後方を見ると、保線の通信用のような小さな箱がトンネル壁面に取り付けられているのが見えました。
窓から手を出してはイケナイのですが、出したら当たったのにはちょっとびっくり。「建築限界を支障してないの?」って思ってしまいました。

syさん、f54560zgさんもやはり、最後尾から眺められたことがあるようでうれしくなります。
それにしてもsyさんはあのトンネルも通られているようですし、呉の路面電車のことまでご存知とはびっくりしました。
トンネルの上下のカーブで削られる描写には参りました。
また、呉市電の北側迂回も、なんでご存知なのか、?????????です。
以上

何故鉄道がすきなのか?
まず、鉄道の響きがいい。
次に、乗ってて眠っていようと、何をしていようと確実に目的地まで運んでくれる。
それから、万が一体が具合悪くなっても駅に降りれば何とかなる。といった安心感がある。
といった、現実感もさることながら、やはり大きな駅駅の複雑な線路の交差、駅の側線にひっそりと待機するディーゼル機関車や電気機関車、貨物列車。
それから、それから、あのリズミカルなレールの振動音。
まだまだありますが、言い尽くせません。
「懐かしい駅」のページはそれらを満足させて下さる写真、話題が一杯で配線図の手持ちがつきても新たな駅の新規開拓を永遠にお願いしたいところです。
思わず、書いてみました。でも、私鉄の駅は、以前触れられていたとおり、ちょっと魅力に欠けるのは同感です。
でも、路面電車はちょっと違うと思います。

先程の呉市電なんかは、私は一度だけしか乗ったことはありませんが、たぶん日本一急峻な坂道を登る電車ではなかったのではないか?と今でも思っています。それから、北側へ大きく迂回しているのは、いたしかたなく、あのルート(呉越)しか道はなかったのです。
また、広島電鉄より早く開通したと何かに書かれてあったことを補足として申し添えます。

TOさん、私は何で鉄道に興味を持ったのか、自分でもわかりませんが、あえて理由を考えるならば、TOさんのおっしゃるとおりですね。
路面電車は私の記憶のかなり初期の頃だけにしかなく、残念ながら興味を持つ以前に消え去ってしまっていました。

愛称付普通夜行客車寝台・鈍行列車「はやたま、長崎(或いは「ながさき」だったか?)、及び山陰」
ずいぶん長い題名ですが、「はやたま」乗車記が単独ではどうしても書けず、同種の日本を代表する3大夜行鈍行(私が勝手にそう題しただけですが)をまとめて書こうと思った次第です。
まず、「はやたま」。
別称「太公望列車」だったそうですが、確かに私が乗った時、数名の釣人が釣り竿と大きなクーラーを抱えて乗り込んできました。
一回目の完乗は、天王寺から名古屋まででした。
昭和56年だったと思います。
当該列車は、客車8両位の編成で昔の茶色の車両と昔の旧急行列車に使用されていたと思われるあの濃い蒼い、碧い色の車両と寝台車付きのものでした。

ということで、第一話を終わります。

【名称付き普通夜行】 「からまつ」「山陰」「ながさき」そして「はやたま」。 ここで私の間抜けぶりをまた一つ。 35年程前から、ダイヤ改正などの機会に、年間一冊くらいは大型時刻表を購入していたのですが、ある時、普通夜行に名称が付けられているのを見つけました。(後年知ったのですが、発券機で指定券を発売する為に名称が必要になったとか‥)その時に紀勢本線の「はやたま」の名称を見つけたのですが、私は前出のTOさんが最初に「はやたま」の名称を出されるまで、てっきり『はたやま』だとずっと思い込んでいて、紀伊山地の由緒有る山名だと勘違いしていました。 SYさんの出雲のコメントに、はたと気が付き、この長い年月に「はやたま」の名称を何度も目にしているのに気が付かなかったのかと、間抜けな自分に呆れています‥。  以前、TOさんのコメントに、姫新線、芸備線経由の姫路-広島間の列車のお話が有りましたが、もし夜行列車なら、TOさんは、なんと命名されるのでしょうか? (もしよろしければ、f54560zgさん、SYさんにもお聞きしたいです) 少年期の頃、夜更かしをして、気がつけば姫新線の津山行き始発列車の汽笛が聴こえてきて、広島発の夜行列車が間もなく姫路駅に到着するかのように、私のロマンチック姫新線に走っていました……。

何と難問を!!。
あくまでも、私の見た昔の旧時刻表復刻版が正しい記憶としてですが、うーん、「播磨」というのはあったようですし、そもそもこれでは姫路-津山-新見-備後落合-三次-広島の路線のイメージに沿いません。
また、三次は霧の町としても有名ですが、これに因んだ名称も難しいです。
私は、実は、備後落合-新見-津山-姫路のルートを何度か通ったことがあり、その記憶を紐解くと、ずっとそばを川が流れていたような記憶があります。
また、この川は山陰側に流れているんだろうか?山陽側に流れているんだろうか?と分からなくなることもしばしばでした。
特に、備後落合-新見、新見-津山間です。
備後落合-新見間は川の中(端)に小さなせせらぎがあり、なんとなく楽しくなる川でした。
以上のことから、「分水嶺」がぱっと閃いたのですが、名称的にはくどい感じがするので「水嶺」でどうかなと思います。
但し、地域性が全く感じられないので、訳が分からない、といったところです。

「すいれい」はきよらかな響きを持つ清音でいいですね。かつては姫路は「日女(ひめ)道」と記されていたようで(彦は「日子」です。太陽への崇敬なんでしょう)、一方広島には厳島神社に市杵島姫が祭られ、想像される列車は姫から姫へと山間地を経て走る故…「ひめさか」はどうでしょう。はしたなくもオーバーナイトの「秘め坂」などとも想像されますが…因みに新見駅の東部の石灰岩から成る台地にそういう名の神社があり、大学生が地底湖で行方不明になった所のそばにあります。山陰山陽の河川の分水ついては、三次を中心とした古い河川である江の川は山陰側に流れ出します。この川が古い故、備後落合駅の東側に水系の分岐があり、以東は山陽側に流入していく一方、南西方では若い河川である山陽側の太田川に削られ、河川争奪と呼ばれる典型的な箇所が安芸高田駅に北西側にあります(事例として「タモリ倶楽部」で、番組上若い河川である多摩川による浸食でできた世田谷区の等々力渓谷を訪ねていました)。さておき、熊野三山とは本宮・那智・速玉社(=新宮)で、もともと松江市八雲町熊野にあったとも言われております。社神は出雲神話の須佐の男で、速玉社の社神に擬されていて、平安期には浄土信仰とも重なり、結果蟻の…と呼ばれました。道の先に神秘的で好奇心をかき立てるところがなんだかありそう、というのは線路のもつ姿なんでしょう。

「はたやま」、じゃなくって「はやたま」(昔は「南紀」だったようですね)は、以前にも書いたかもしれませんが、宿代わりに数回利用しました。すべて天王寺行きでした。新宮あたりから乗車し、ガラガラのボックス席1マスを占拠して横になるんです。ところが和歌山近くになってでしょうか、ふと目が覚めると思いのほか多くの乗客がおり、あわてて起きて席を空けた記憶があります。
周遊券を利用して夜行列車で夜を明かす場合、深夜に夜行列車同士の乗り換えをしなければならない場合が多く、寝過ごさないために落ち着いて横になれないのですが、「はたやま」、じゃなくって「はやたま」(しつこい!)の場合は安心して熟睡できました。
姫路発広島行きは「中国山地縦貫夜行1号」ですね。(メルヘンも何もありません、というより、私の感性はその程度のものです・・・(汗))。

愛称付普通夜行客車寝台・鈍行列車「はやたま、長崎(或いは「ながさき」だったか?)、及び「山陰」)はあまりにも長いので、今後は、「愛称付き本州3大夜行鈍行」とでもしましょうか。
「からまつ」のことすっかり忘れていました。
でも、大垣夜行は客車じゃないですよね。
なかなか、本題に入りませが、ご容赦下さい。

愛称付普通夜行客車寝台・鈍行列車「はやたま、長崎(或いは「ながさき」だったか?)、及び「山陰」)はあまりにも長いので、今後は、「愛称付き本州3大夜行鈍行」とでもしましょうか。
「からまつ」のことすっかり忘れていました。
でも、大垣夜行は客車じゃないですよね。
なかなか、本題に入りませが、ご容赦下さい。愛称付普通夜行客車寝台・鈍行列車「はやたま、長崎(或いは「ながさき」だったか?)、及び「山陰」)はあまりにも長いので、今後は、「愛称付き本州3大夜行鈍行」とでもしましょうか。
「からまつ」のことすっかり忘れていました。
でも、大垣夜行は客車じゃないですよね。
なかなか、本題に入りませが、ご容赦下さい。

「姫坂」なかなか言い得て妙です。
私の場合、そんな高尚な語彙は到底持ち合わせてはおらず、ただ、ただ地形を思い浮かべて語っているだけです。

ということで、広島-姫路は、「中国縦貫特急」に軍配が上がったと思うとこらです。

なんですが、神つくし(筑紫)(宗像)をむすぶルートで「神代急行」はどうでしょうか。

すみません。
ちよっと、いや、大変酔ってしまい、しどろもどろになってしまいました。
明日は、長崎まで行くかもしれません。
もう、今日ですが。

唐突にもかかわらず愛称名ありがとうございます。 TOさんの「すいれい」は、コメントを読み終え(私は備中神代-備後落合間は未踏ですが)姫路-広島間の情景が浮かび、成る程有り得る愛称名だと唸らされました。 また、SYさんの解説と共に「ひめさか」は、夜行列車がなければキハ55系による同区間を準急で実在したような想いに駆られました。 さらにf54560zgさんの「中国山地縦貫夜行」は、イベント列車で実現しそうな愛称名です。 因みに私は「白鷺」を思い付いたのですが、東海北陸地区の方々に叱られそうですので、「鯉城(こいじょう)」にしてみました。(広鉄局担当の列車が良さそうな気もしました) 皆さん、ありがとうございました。 今回75番目のコメントですね。 75と言えば交流電機ED75ですが、たぶん青森機関区を訪れた時でしたか、ED75の側面ナンバープレートの数字間隔の一箇所がいびつに離れていて(例えばこんな感じ ED75 10 39)あんな珍しいナンバープレートを見たのは後にも先にも一度っきりだけでした。 当時の写真が発見できれば何号機だったか判明すると思います。 ついでにED74ですが、大分運転所を訪問した時、大分駅の少し南の高城駅?に廃車となったED74が留置されていると聞き、色めき立った私でしたが、すぐに別の方が既に無くなっているとおっしゃり、ジェットコースター気分を味わいました…。   あれ?76番目ですね。 ED76‥。 ED76は九州のカマなんですが、北海道用500番台のことを。 90年代の前半に晩年の岩見沢第2機関区(既に空知運転所だったでしょうか?)を訪れた時の事ですが、庫内にED76の500番台(513?)が踏切事故で前面が焼ける損傷状態で留置されている姿を目撃しました。 焼け焦げた機関車を間近で見たのは初めてで、その痛々しい姿に心が痛んだ事を思い出しました…。

E10さん、広島の鯉城なんかどうしてご存知なんですか?
こいは、こいでもお城の鯉は、と歌にも謳われているのが、
毛利輝元が精魂込めて築城した、広島城です。
豊臣秀吉が、毛利氏を攻略する拠点としたのは姫路であり、また、姫新線の途中には「上月駅」(上月城)あり、宮本武蔵ゆかりの地あり、下って芸備線の「吉田口駅」は毛利氏の元の拠点吉田町の入り口でもあります。
ついでに、いくさ、恋の「神」まで中間に「備中神代」まであるではありませんか。
広島の西には、「己斐(こいと読みます)」という駅もありました。(現在の西広島駅)
それで、姫路の「路」、市杵島姫から連想される「恋(己斐)」から「恋路」なんか如何でしょうか。

私ごとですが、やはり西広島駅より己斐駅の方がいいですし、広島港行の広島電鉄より宇品港行の方がいいと今でも思っています。
国鉄の宇品線は、とうとう乗る機会はありませんでしたが、広島電鉄の宇品線はしっかり市民の足として健在です。

「水嶺」「ひめさか」「神代急行」「白鷺」「鯉城」「恋路」・・・・・・スゴイ。今までのコメントからは到底そのような言葉が出てくるとは思えないのですが・・・・って、大変失礼いたしました。
E10さんは、青森のED75に大分のED74に岩見沢のED76500と、広範囲に活動されていたんですね。随時レポートを期待しています。
事故に遭った車両を見るのはつらいですね。私は倉賀野で架線のないところに置かれた電機を見て心が痛みました。
「西○○」とか、「新○○」という駅名は何か味気ないですよね。新南陽より周防富田、新山口よりも小郡ですね、やっぱり。

【鉄路と呑】グラス片手に鉄路の想いにふける…。鉄道好きにとって至福のひと時ですね。 SYさんとTOさんのお話に、お酒にまつわることを思い出しました。 今では乗れば呑んでる私ですが、機関区全国行脚の頃は一滴の酒も口にすることはありませんでした。 民営化直前の渡道で、小樽築港機関区の東洋一と言われた扇形車庫内に息を吹き返した北国のハドソンC623を特別な計らいで訪問し(当時マスコミ関係以外は非公開。これも時の運ですね)廃線直前の羽幌線を経て、国鉄時代の機関区全国行脚の締め括りとして、夜の稚内機関区を訪れた帰路に青森からブルトレ日本海に乗車した車内での出来事です。 B寝台の向かいには京都まで帰ると言う、まだ幼い子供連れの若夫婦と乗り合わせました。 勿論自販機や車販もなく、まだペットボトルなど見掛けぬ時代。 当時、酒類など口にしない私は缶ジュースを忘れずに買って乗車したのですが、しばらくすると向かいの子供が「ジュース、ジュース」と愚図つきだしました。寝台のカーテン越しにすぐおさまるだろうと思っていたら、一向におさまる気配がありません。短い停車時間では父親がホームに買いに走ることも出来ません。 寝台車で一夜を過ごすのに飲み物無しでは不安でしたが、愚図つく幼い子供をほって置くことも出来ず缶ジュースをどうぞと譲りました。 すると効果てきめん、子供って缶ジュース一つでこんなにおとなしくなるのかと思い、夜の弘前、大館、東能代等の構内に目をやりながら休んでいたら少し停車時間のあった秋田辺りでしょうか、さっきの父親から缶ジュースのお礼にと缶ビールのお返しがあったのですが、お酒は飲めないのでお断りした私でしたが、どうしてもと勧められて代わりに他の清涼飲料水をいただきました。 旅先での小さな触れ合いも思い出に残るものですね。   今回は79番目ですね。 もちろんED79です。 これも国鉄時代末期か国鉄民営化直後の頃の事です。 函館で青函連絡船の時間待ちだったでしょうか、五稜郭機関区を訪れたら、海峡線用に改造されたED79が何十両もズラリとならんでいました。 まだパンタグラフも未装備で、甲種輸送などで新車の類は何度も見かけましたが、あのような状態で見たのは初めてでした。 パンタグラフのない電気機関車って、当時の最新鋭ディーゼル機関車みたいで意外とかっこよかっですよ。 また近年、ED79にドラえもんのカラーリングが施されていましたが、数種類施された中でも、きわめて短命のカラーリングがあったようです。 ED79にも幻の機関車が存在したみたいですね…。  (TOさん、前出の鯉城は広島カープの名称で知りました)

『ちょっとひと休み』ですが、トンネルは抜けーェの、長い坂は登りーィの、本州最南端をかすめェーの、九州の最西端も北海道の最北端も行きーィの、と居ながらにして、換言すればひと休みの心で旅気分を追体験できました。諫早区、築港区、稚内区以外の、岩見沢第二所・青森機関区(東青森運輸区でなく)・五稜郭機関区などは、駅からかなり距離があり、“E10”さんの健脚ぶりと言おうか、熱意の強さを感じます。ところで高架工事前のかつての旭川駅には立ち寄られたんでしょうか。

E10さん、いろいろな体験談興味深く読まさせて頂いています。
時刻表を見ながら一度は寝台車特急「日本海」に乗って、青森から大阪まで文字どおり「日本海」を眺めながら、「佐渡に横たう天の川」の勇壮な荒海を見てみたいとと思っていましたが、ぐずぐずしているうちに、叶わぬ夢となりにけりです。
列車での触れ合いはありそうでありません。
「あさかぜ」に乗ったとき、下関から乗車された年配の方から「私は東京へ行くのに、いつもこれを使うんだ。楽ですから。」と話しかけられたことと、廃止間近の「富士・はやぶさ」(はやぶさの方の車両)で、長崎から東京まで行かれるという自分より3、4才上の女性の方と話しをしたくらいです。
なかなか上品な方でした。なんでも、関東から長崎に嫁がれて法事で帰るところということでした。こちらの方も、東京に行く時は寝台列車を使うとのことで、少し前までは「さくら」を利用していたとのことで、「さくら」廃止のあとはこの「はやぶさ」になったということでした。
私は、「富士・はやぶさ」の廃止が決定されどうしても「はやぶさ」の方に乗りたいということで、丁度東京出張があったので博多から広島まで新幹線で追いつき広島から乗り込んだわけです。
なので、この妙齢なご婦人と話しができたのは、明けて次の日の朝です、
何故なら、広島から乗ったときはもう10時位でしたので、西条手前ではもうすでに眠りこけていたからです。
今回は糸崎も尾道も見ずに、浜松手前まで全く目覚めませでした。
ちよっと違うアナウンスの音に起こされた時は、ひょっとしてといった予感どおり、列車は1、2時間遅れとなっていました。
そんな中でのことだった訳です。

このまま乗り続けても別段支障はなかったのですが、代替の新幹線に移ることにし、私としては珍しくキヨスクで売っている使い捨てカメラで「富士・はやぶさ」の勇士を収めました。

もう一度このパターンで乗れる出張があるので、乗り換えたのですが、次はありませんでした。

そのことは、またの機会に譲ることとし、今日はここまでとさせて戴きます。

旭川機関区は、あれほどの要衝でありながら、なぜかいつもひっそりとした印象でした。 79年夏の初訪問では、下り方面の陸橋を渡り機関区へ向かいました。 陸橋から見える煉瓦造りの旭川工場が印象的でした。 駅までの帰り道は、富良野線ホームまでの近道を教えてもらい、その後は通い馴れた道となりました。 また、宗谷本線から石北本線へ乗換のため利用した深夜の旭川駅の雰囲気は、ディスカバージャパンが熟成された人々の姿で活気に満ち溢れ、その表情には期待と希望が見えていたように感じました。 冬の旭川機関区の列車収容庫の屋根のヒサシに2メートルはあろうかのツララが何十メートルにも及び、その光景も過去のものとなりました。 旭川機関区の扇形車庫に関しては、近年脚光を浴びたため多くを語る必要はあまりないと思いますが、25番線級の扇形車庫が21世紀までほぼ原形の姿を留めていたのは奇跡的でした。 1999年の大晦日の日付が変わる頃、急行利尻が旭川駅に停車中、盛大な花火が打ち上げられていました。ミレニアムと言われた2000年の正月に、扇形車庫から転車台に乗り出区する謹賀新年スタイルのC11 171を目撃したのも既に懐かしい思い出です…。  旭川機関区で一つ気になっている事があります。北国のハドソンC62が旭川までの仕業で旭川機関区に来ていたことは知られていますが、C62型蒸気機関車として踏んだその最北端の線路は旭川のどの辺りでどこのレールなのでしょうか…? またそれはC62の何号機がその最北端のレールを踏んだのか場所と合わせて知りたいものです…。  いつものように82番目のコメントになりました。 やはりキハ82系でしょうか。 キハ82系と言えば晩年は貴重となった食堂車のことを思い出します。 これも79年夏のことです。 北見の街を拠点に旭川機関区や名寄機関区を訪問するため、特急おおとり に北見駅から乗りました。(今から考えると極めて非効率的ですね) 以前から食堂車を体験してみたいと熱望していた私は、乗車後しばらくして遠軽駅で方向転換した辺りからでしたか、食堂車に行ってみました。 少し混んでいて、係のお姉さんに案内されたのは相席で、進行方向右側の窓側後ろ向きの席になりました。 向かいには50代くらいの男性がアルコール類でくつろいでいます。 私は食堂車の体験でしたので、一番安価なコールコーヒーです(アイスコーヒーのこと。レェーコとも言います。何度か旅先で試しましたが関西以外では通用しないようです)。 食堂車からの車窓を見ながら意外と美味しかったアイスコーヒーを味わっていたら、これまた4〜50代とおぼしき二人の紳士が相席となり私のテーブルは満席となりました。 アイスコーヒーを飲み終えて席で粘っていた私でしたが、後から席に着いた紳士達の会話がなにやら盛り上がっています。 勾配区間のエンジンの唸りに漏れ聞こえてくる声に聞き耳をたてていると、どうやら北見市の医師と市議会議員が札幌の道庁まで何かの陳情に行くようです。 アルコールが進んだ市議が私の向かいの男性に話しかけ、しきりに自分の意見に同意を求めています。 その男性は困惑顔でしたが苦笑いをしながら相槌を打っています。 目の前で繰り広げられる会話がたいへん興味深く、そのような光景に私も大人の仲間入りがしたくなり、また、内心自分に意見を求められたらどうしよう‥などと思いながら、飲み干したアイスコーヒーを次々に注文をして(空席待ちの乗客には申し訳ありませんでしたが)下車する旭川駅の手前までその場に居座っていました。しかしながら当時高校生の私には内容が難しすぎて遂に話しの輪に入ることは出来ませんでした。 ヒートアップした会話が楽しく続いていましたが、向かいの男性が退席し、私も下車するため旭川駅の手前で退席した後も隣の紳士達の会話は延々と続いていたようです…。  食堂車の雰囲気とエンジンの唸り、偶然相席となった旅人達の会話…。  30年前、夏の石北本線を函館へとひた走る特急おおとりの食堂車キシ8026の車内での出来事です…。  なにぶん30年も前のことですので記憶違いがあればご容赦下さい。更に様々な記憶を思い起こさせていただけるf54560zgさんのブログと皆さんに感謝しています。

古い優等列車の愛称名を、皆さんの一連の記述から思い起こさせて頂けるだけでも自身幸甚です。旭川駅は富良野線との間に形成したデルタに工場を抱え、扇形庫とそれに連接した庫もあり、優に道央の中心的要衝の構造を有していますが、“E10”さんの記述でその片鱗を感得出来、感謝に堪えません。自身も最低旭川駅と、岩見沢、航走輸送がなされていた青森駅及びその周辺を歩いてみる努力を万難を排して行うべきだったと今頃になって後悔している次第です。ここで触れられた小郡駅(現新山口駅)にも転車台が2台あったことを航空写真から一年余り前知り、山口線から乗り換え時、2時間くらい同駅周辺を逍遙すべきだったと痛切に思っている次第で…。本当自身の無知は結果的に根本的な漏れを生んでしまいます…トホホ。

先日の続き

先日の、E10さんの記述にあった、親子連れの情景から思ったこと。

夜行列車に子供が乗っていると嬉しさが倍増する。明るさ、活力も倍増する。
列車(鉄路、駅も含めて)の魅力を何らか感じ、将来の鉄路ファンになってくれる期待感がある。
ならなくても、大人になって懐かしさを思い出してくれればいい。
将来「懐かしい駅の配線図」に辿り着き、癒しを満喫してくれるかもしれない。

興味深そうに列車内を探索する子ども達、寝台の上段ではしゃぐ兄(姉)弟(妹)。
見ていて、自分も小さいころ寝台に乗る機会があったら、楽しい記憶が刻まれただろうと羨やましい限りである。(会社勤めをするまでは、指定席はおろか、寝台は寝台でもそれに付属している自由席のしかも「普通」の急行の客車にしか乗ったことはなかったが、それはそれで楽しい思い出である。寝台以外でもただの急行の自由席である。

姪や甥を「あさかぜ」や「銀河」に乗せたことがあるが、どう感じているのだろうか。(自分が乗りたかっただけで、本当は自分が乗せて貰ったようなものだと言えるので、これに期待するのは身勝手であるが……。)
少々ぐずつき、ぐずつきっぱなしの子も時にはいるが、それでも親が叱り、まわりにすまなそうな素振りを見せさえしてくれればそれで気が済むし、救われる。
どうせ、30分もすれば眠りこけるのだから。
外国では子供にはこういうところは子を人と看做さず、しっかり躾けるようだが、私は上記のように親が少しでも気に掛けていることが窺えれば全然許せるし、これが日本の躾けではないかと、一人納得している。
特段、品行方正でなくてもよい。
好奇心一杯で、後ろの車両、前の車両と行き交う子が好きだ。(本当は、自分もしてみたいだけのことだが……。)

但し、2つだけはしっかり守って貰いたいことがある。
座席に靴を履いたまま上げる親、これは特に酷いと思う。親自身がやっているのと同じことなので救いようがない。これだけはたまらない。
また、履いたまま上がった子を全く叱りも、正そうともしない親。最近このような場面で叱った親を見たことがほとんど無い。
残念だ。
もう一つは、(駆け足で)走り回る子。
楽しくて、元気でいいのだが、やはり危険だ。
この2つである。

ちょっとはずれた話になりましたが、「ちょっと一休み」に免じてご容赦下さい。

ちょっと忙しくて間があいてしまいました。
一つ目、お酒の話。
私はアルコールがダメです。体質的にダメです。父も母も祖父も祖母もダメですから、遺伝なんでしょうね。
周遊券で夜行列車の中で夜を明かすことが何回かありました。ボックス席に無理やり横になるわけですから当然なかなか寝付けません。
北陸に行って「立山」で夜を明かすとき、「酒を飲めば眠くなるのでは?」と浅はかに考えて、ワンカップ酒を購入し、ちびちびと飲んでいました。途中の記憶がないので、そこそこの効果はあったのかもしれませんが、目が覚めると猛烈に気持ちが悪い。下車する富山駅は目前です。とりあえず高山線の列車に乗り換えたのですが、途中でどうにもならなくなって、笹津で下車。朝の6:30です。待合室のベンチで横になっていたのですが、急にこみ上げてきて、待合室の床に思いっきりゲロしてしまいました(失礼!)。周りには誰もいませんでしたが、さすがにその場にいずらくなって、ゲロをほったらかしにして外に出ました。しばらくして舞い戻ると、ゲロはきれいに掃除されていました。笹津駅の皆さん、大変申し訳ありませんでした、1979年10月5日朝、待合室でゲロしたのはこの私です・・・・。
この日の予定がメチャクチャになったのは言うまでもありません。
二つ目、寝台車の話。
私は寝台車には一度だけしか乗ったことがありません。それも特急ではなく、「銀河」です。
1979年8月21日、東京から京都まで、ナハネ20139、4号車3番上段です。
東京発22:45、京都着7:17ですので、ほとんど夜行列車を楽しむような時間帯ではなく、そもそも「銀河」という列車自体、観光というよりはビジネス向けだったのかもしれません。
そのようなわけで、ほとんど覚えていることもなく、唯一の記憶は、「斜め下あたりの寝台は女性らしい」ということぐらいです。
外界とはカーテン1枚で遮られているだけですから、物騒と言えば物騒ですよね。
2つともしょーもない話で大変失礼しました。

f54560zgさん、私も全く飲めませんでした。
父がほとんど、母は少々、祖父はかなりでした。
なので、何となく少しは戴けるようになりました。

お酒のことはこれくらいにして、ボックス席の寝台を語ります。

SYさんの視点には敬服です。2時間とは言い得て妙です。 私は最寄駅から機関区構内を一巡して、次の訪問先へ向かうまでに2時間を目安にしていました。 更に、レール好きの皆さんも健脚でしょうが、なかんずく健脚と言えばやはり f54560zgさんです。 確かに私は函館駅→五稜郭機関区、釧路駅→釧路機関区、稚内駅(南稚内駅ではありません)→稚内機関区などの長距離走破も有りましたが、何れも高校生の頃であり、まだその頃は機関区の所在地が全く分からずに駅からの探索を兼ねて線路近くを歩いたものです。(五稜郭では五稜郭工場の金網塀に突き当たってしまい、何箇所も塀をよじ登るはめに‥) また、社会人となってから、岡山機関区、広島機関区、青森機関区などはタクシーで道案内をしてもらいましたが、駅までの帰りは歩きました。 でも、岡山機関区の帰りは岡山駅で初めて乗った100系新幹線の閉まる扉スレスレに飛び乗り、広島機関区の帰りは広島駅で電車に乗り遅れて瀬野機関区が夕暮れ時になってしまったり、更に青森機関区の帰りは夕暮れから日没時に猛吹雪の中を青森駅まで歩き、その疲れのためか翌朝の八戸で朝寝坊をして、八戸機関区の滞在時間が大幅に短くなってしまいました。 そんなこんなで、やはり最寄駅からの距離感がネックとなり未訪問のままの機関区も有りました。 富山第二機関区や高崎機関区などがそうです。 高崎機関区などは、茅ヶ崎機関区を訪ねた時に案内していただいた方から「高崎は歩くぞ!」と、教えてもらい、それから高崎機関区の訪問は二の足を踏んでしまいました。 高崎機関区は自分でも訪問していないのが信じられないほどの重点的な機関区ですが、その後、趣味誌で多々見かける高崎機関区の様子に溜め息をついています。 f54560zgさんのブログを拝見させていただいていた当初だけは、駅撮りはいいなぁ、ホームからでも写せるし、30分もあれば‥、などと思っていましたが、それはとんでもない思い違いで、立地が許せば駅が見渡せる限りの全周を行動されており、私も写真の写し忘れで機関区構内を行ったり来たりしたことはありますが、f54560zgさんの踏破様式距離とは全く比べものになりません。 更に注目すべきはその季節です。 私の場合、撮影具合に託けて、夏場は斜光の関係で車両の足回りが影で真っ黒になるので夏場は極力避けてます‥などと言い訳をしていたのですが、ほんとは炎天下の歩きが苦手なだけだったようです。 ですので私の場合、比較的撮影時期は日照時間の短い冬場に偏っており、非効率な撮影行の連続でした。 そのてん、f54560zgさんは季節に関わらず行動されており、レールに覆いかぶさる雪を避けた地域と日程を考慮されています。 また、バックナンバーの一覧を見渡しますと、その日の内に何箇所訪問されているかで、いかに手間隙のかかる仕業なのかが察することが出来ます。そしてその行程を組む仕業もご苦労されたことと感じます。 以前、SYさんや皆さんもおっしゃられていたと思いますが、様々な労力を注がれた線路探訪を惜し気もなく披露されているf54560zgさんに更なる感謝をしています。

貧乏学生が周遊券片手にうろうろしていたものですから、どうしても自分の足が頼り、と言う部分は確かにありましたね。
・事前の情報が少ない中で出かけたもので、線路が続いていると、「この先はどうなっているんのだろう?」と思って予定時間を無視して線路を辿っていくこともありました。
・逆に時間を気にして、「まあ、いいか・・」と辿るのをあきらめて、あとで後悔したことも多々ありました。
・着替えなどの旅行道具を持っての歩きは、ちょっと大変でしたね。
・最大の敵は、「もういいよ」という、妥協の心でしたね。旅行の後半になってくると疲れもたまってきて、かなり気力がなくなります。
・貨物専用駅はなかなか行けませんでした。E10さんのようにタクシーを利用すればよかったと、今にしては思うのですが、当時はそんなことは思いもつきませんでした(貧乏学生には、タクシー=高級品、というイメージでしたもので・・・)。
E10さんには、ぜひとも機関区探訪記をご披露いただきたいと常々思っているのですが・・・。

syさん、折尾駅のところで鷲羽山からの瀬戸大橋建設の様子をご覧になられたということを読みました。どんな様子だったのでしょうか?
また、岡山機関区、岡山操作場如何でしたか?
私は、昭和41年の夏休み、鷲羽山に行ったことがあります。
降りそそぐ光の中、のどかに、ゆっくりと沖を往来する船舶の光景が思い出されます。
岡山からバスでしたが、途中、今は廃線となった下津井鉄道と併走したことも思い出されます。
瀬戸大橋線には、10年位前、徳島からの帰り、通ったことがあります。
列車が通ると何メートルか下がると言われていますが、全く感じさせず、快調に通過しました。
宇高連絡船は一度往復したことがありますが(昭和55、6年頃だったと思います。)、往きも帰りも夜だったせいか、ずいぶんのろい船だなあ感じた記憶があります。
その時、初めて寝台特急(「富士」)に岡山から乗ったのですが、今となっては、宇野発の「瀬戸」に乗ることは十分可能だった訳で(余裕を取り過ぎて、「瀬戸」より後の「富士」にした次第。)、今となっては、こちらに乗らなかったことが悔やまれます。また、当時の宇野駅の様子もほとんど見ておらず、お伝えすることも出来ません。こちらも悔やまれます。
私にとって、宇野と言えば、急行「鷲羽」です。
大阪から「音戸」で帰る時、必ず「鷲羽○号宇野行きは・・・・・、」のアナウンスが聞こえ、岡山までは同じ山陽本線を走る仲間なのに、全く違うところを走る列車ような感じがしていました。
深夜なのに普通の電車(寝台でないという意味で)、また、宇野線はもう電化されているんだという驚きがあったのかもしれません。(寝台急行「安芸」も昭和45年にこれと同じ電車になってしまいましが・・・・・。)
急行「鷲羽」が数多く発着した当時の宇野駅は、ずいぶん賑わっていたんでしょうね。

「鷲羽」という名は親の実家が四国にあったため、幼少期から親に連れられ、小学生からは一人で乗り倒した名称です。その名の山からみたのどかな海に下津井大橋部分の主軸が立ち上がった頃合いで、もしケーブルが張られ、外観として橋の連続が輪郭として辿れていたなら、さぞかしもっと壮観な姿であったでしょう。吊り橋部分の加重による撓みは計算上4㍍で、角折れを防止するために、線路がスライドする緩衝桁という特殊な構造を設けて、撓みに対処しています。実際茶屋町から瀬戸大橋線は滑らかで、四つ目トンネルを抜け橋にかかると思わず下方の海面を見てしまいます。また本当に不連続を連続にする特殊な桁がどこで作動しているのか、それが分からないほど滑らかでした。まあ連続斜張橋等、橋梁の実験場みたいな瀬戸大橋線ですが、その成果以降の各地の架橋に見られます。なお岡山操車場については改めて、ということで。

えーっ。SYさんは四国にご縁がおありだったんですね。
急行「鷲羽」。聞いただけで、鷲羽山、鷲羽山の麓の宇野、四国へ導いてくれる列車、と連想が想起されます。
一度も乗ることはありませんでしたが、懐かしい名前です。
四国は広島県の対岸で、気軽に行けるところなので結構行っています。
とりわけ、愛媛県はちょっと向こう側といった感じで、地区の旅行等の目的地として手頃な場所でもありましたが、列車に乗る機会はあまり多くはありませんでした。
それでも、学生の頃、北条、大洲での合宿は松山から予讃線での移動でしたし、徳島、高知、勿論高松(松山以外は、ほとんど出張絡みでしたが)にも行っていますので、四国の県庁所在地の駅は全部制覇していることになります。
四国は大きな駅がなく、雑誌等でもとりあげられる機会が少ないと思いますが、それでも高松駅は四国の玄関口にふさわしい駅で魅力がありましたた。やはり、始発・終着の駅らしい何とも言えない情緒があります。
また、徳島駅の線路配線は、何となく三次駅に似ているような感じがしました。
SYさん、ご存知でしたらお教え下さい。
戦前、宇高連絡船(或いは青函連絡船)に列車を載せていたと何かで読んだような気がするのですが・・・・。また、その連絡船に続く桟橋のレールも見たような気がします。
本当であれば、船内はどんな線路配線図だったんでしょうか?
-列車をそのまま船に載せる-
瀬野・八本松間の走行切り離し以上に、一度でいいから見てみたかったシーンです。

宇野駅は皆が船舶内での好位置を確保するために一心に走り、駅の構造はまず見ないでしょうし、逆に高松駅に到着したひとも同様でしょう。高松駅は頭端駅の独特の佇まいをもち、三枝線の可動桟橋を介して貨物の入換えを常時行っていました。可動橋故にバッファーとなる空車を介してです。よって車両甲板は3線で、多分フェリー同様の車両止め設備を有しているのでしょう。旅客車輸送は進駐軍関連で始まりましたが、洞爺丸事故、そして広島県の小学生の修学旅行で百数十名が亡くなった宇高連絡船紫雲丸事故を境に消え、以降車両甲板は禁足となりました。この事故については小さい頃母親から聞いた記憶が有ります。甲板の構造については何処かで図面を探すしかありません。また徳島駅ですが、眉山の麓で三次駅より狭隘な場所に旧徳島気動車区があり、因みに中四国で唯一と思われるダブル・スリップがあったと思います。自身は小松島港という変わった構造の臨時駅を使って和歌山に渡ったことが印象として残っています、目の前に小松島駅があるのですが。

SYさん、いろいろとありがとうございました。
旅客輸送あったんですね。
小松島港線、思い出しました。といっても、地図上でのことですが・・・・・。
以前は、このような線が結構あったんでしょうね。
今の時代、廃線となるのは止むを得ないと思いますが、やはり淋しい限りです。
松山はこことちょっと違い、私鉄(伊予鉄)ですが、観光の要素が強いことと、港(松山観光港)まで結構距離があり、生活にも密着しているので生き残っているのでしょう。
長崎もあったようですが、今は、駅と港の間に立派な道路が立ちふさがり、稲佐山の展望台から見ても往時の面影は偲ばれませんでした。
○○港線。何となく惹かれます。
仙崎線、境港線は(出張絡みでなく)乗車したことがあります。
少し違いますが、今は廃線となった大社線にも乗りました。とにかく乗ってみただけのことですが・・・・・。

中国・四国地方は線路めぐりとしては行ったことがありませんのでSYさんやTOさんのお話楽しく読ませていただいています。
ただ、残念ながら輪に入れない・・・う゛~~。

自身は意味を一体的に捕捉できる年頃である高校時に、山陽新幹線が開通し、興味が高ぶり、それ故に先ずは岡山駅についてです。かつては本屋に面して山陽下り本線があって、同駅については6方向に伸びるが為に乗換えが必然で、よって古めかしい狭い跨線橋の存在が印象第一です。やがて本屋を覆う形で山陽新幹線のホームができ、山陽線関係は島式ホームになりました。副本線は同駅着発の山陽本や赤穂線・伯備線関係、更に宇野線、そして山陽上り一面と側線数本夾んで吉備・津山線ホームとなっておりました。南西側に宇野線と山陽上り線を成す紡錘部分に客車留置線があり、その先西側に転車台があり(機関区とは別です)、現今電留線の原型です。岡山電車区への出入線が設けられ、新幹線の延長に応えました。そして、以降普通旅客者の対応のため、同駅については切欠ホームが矢鱈出来、結果総合的に改められ絞られる構造になるようです。山陽下り本線の外側(西北側)に宇野・四国線ホームになり、かつて構造に近づくようです。どうしても折り返す列車は内側で、というのが実感なのですが…とあれ、概ね一駅で6方面へ延びる駅は他にないと思うのですが。

岡山は、東西南北から鉄道が集結し、機関区あり、操作場あり、車両基地ありと胸がわくわくする駅です。
6面方向以上。
何だか鉄道カルトクイズみたいで面白いですね。
東京、大阪を除いてすっと思い浮かんだのは「博多駅」です。
①鹿児島本線上
②鹿児島本線下
③長崎本線
④佐世保線
⑤香椎線
⑥福北ゆたか線
の6つです。
③の長崎本線と④の佐世保線は、②の鹿児島本線の延長線上で同じではないか、の反論がありそうですが、長崎・佐世保行きの特急「かもめ・みどり」は3番ホームから、長崎行きの特急(白い)「かもめ」は4番ホームからと確実に使い分けられているので、一応よしとして下さい。(いつも乗っているので確かです。)
リレー「つばめ」、「有明」等とは違うホームからの発着になっています。
⑤の香椎線⑥の福北ゆたか線(余談ですが、初めて聞いたとき、「ホクホクゆたか」と聞こえ、面白いネーミングだなあと感じたことが思い出されます。)の状況はあやふやで、次回広島に帰る時確かめてこようと思います。
これが専用であれば、少なくとも6面にはなりそうです。
なお、ついでに大分、宮崎へ直通する日豊本線、由布院経由大分行きの久大本線も入れたいところですが、全く別次元になってしまいますので止めにしておきます。
尤も、これで「岡山駅」を考えるなら、予讃線、土讃線、高徳線、元々の宇野線、さらに智頭急行まで含めることになり「岡山駅」の圧倒的勝利?になってしまいますが・・・・・・。
と、博多駅を岡山駅と同等かそれを上回る駅にしようと捻ってみましたが、徒労に終わりそうです。
なお、宇品線があった頃の広島駅は、
①山陽本線上
②山陽本線下
③呉線
④芸備線
⑤宇品線
と5方向面でした。
可部線は、昔はほとんど隣りの横川駅からで、三段峡行きが山陽本線下りのホームから発車していたような記憶があります。
可部線専用のホームがあれば6方向面だったんですが・・・・、残念でした。

SYさん、岡山は
・山陽下り
・山陽上り
・赤穂
・津山
・吉備
・伯備
・宇野
で、計7方面では?
TOさん、香椎線は博多からは発着しないと思います。昔は筑肥線がありましたけれども。
岡山、広島、いつかは行ってみたいですね。

 失礼しました。そういう事になりますし、“TO”さんご指摘通り、津山を経ない上郡駅経由の気動車特急もありましたね(上郡駅がいじられたのでその記事は読んだのですが、失念しておりました)。8方向とも言えるかもしれないです。
 岡山駅に続き、次に美観地区などの玄関である倉敷駅を描いてみたいと思います。かつては駅の北側に後にはチボリ公園になるクラ紡の工場があり、北側の伯備線ホームと間に数本の側線があり、また伯備線と山陽本線は平面で交差しておりました。とは言え、伯備線単線の非電化ですからさしたる問題もなかったのでしょう。しかし新幹線に繋がる陰陽主要連絡線の位置づけを同線はうけ、新見方への線増が始まりました。まず多分昭和40年台の前半、山陽線下り線からの乗越えの高架線が設けられ、降りきった倉敷駅東側で伯備線上下が1線に扼されて交差し、ホームに進入します。本線横断を除去する簡単な設備投資です。そしてトンネル、高梁川に沿う屈曲線のショートカット等です。一応部分的な線増完成の後に出雲駅(旧出雲電車区)まで電化され、山間とカーブにに強い車種の導入になりました。同駅は水島臨海鉄道ともつながり、山陽上り貨物線との間で貨物車の授受を見掛けました。なんせ臨海鉄道には倉敷貨タ駅があるくらいですから。昔は美観地区の掘割り(倉敷川の源頭)に米俵を積んだ高瀬舟が往来し、よって倉敷の名称の由来になりました。江戸期の米の集散の舟運、戦前はクラ紡からの軽工業品、成長期以降自動車・化学製品。産業変化と輸送の変化を側面でのぞかせてくれる駅です。ちなみこの線区で初めて蒸機列車に乗りました、多分新見区の牽引機でしょう。

数えた訳ではありませんが、読みやすい400字程の空間に倉敷駅の情景が凝縮されていて、いつもながらの SYさんの解説に引き込まれてしまいます。 贅沢かも知れませんが、SYさんの知識やご経験を潤沢な文字数でご披露していただきたい願望を常々抱いています…。 とうとう99番目のコメントまでやって来ました。 99と言えば、晩年の竜華機関区にいた EF58-99号機も思い浮かぶのですが、やはり D50の旧称9900型でしょうか。 SLの代表と言えば D51型 デゴイチですが、その完成型の元となったのが9900型ですね。 発展型のD52は D51のパワーアップ型ですが、D50から見れば孫でしょうか。 D50型は、ごく数両が昭和40年代まで残りましたが、C51やC53の様な華やかな活躍もあまりなく、戦前の特急燕などの箱根越えの補機が唯一スポットライトを浴びたくらいの地味な貨物用機関車でしたが、私の中では不思議と魅力を持つSLです。 梅小路に行けばD50140号機に会えるのですが、数年前に北見市を訪れた時、小さな公園に綺麗な姿で保存されていた D5025号機と対面出来、30数年来の願望が叶えられました。 近年、静態保存のSL達が朽ち果てて行く様子が多々あるなかで、この D5025号機がいつまでも元気そうな姿で居てくれることを願って止みません…。

 続いて機関区の素描を試みたく思います。岡山駅を出ると、西側から山陽本線上り線、カーブする築堤上の宇野線、電留線、折返し用山陽上り電車線、電車区出入線、山陽本線上り線と並び、さらに2線が自駅貨物と機走用として配されていました。東西方向に振るためカーブする山陽新幹線から眺めると、宇野線を除けば、設備配置上西浜松駅を横断する風景に似ているかもしれません。宇野線をアンダークロスした機走線から1線が分岐し直接扇形庫に入り、山陽本線下り線がオーバークロス辺りで、他方は宇野連絡貨物線が寄りつき南西に開いた機関区からの出入区線と合流し、岡山駅扱いの機関車はここから折返して出て行ったのでしょう。デルタ内の機関区の扇形庫は23線を擁し、更に4線を夾み真南3線の扇形庫が見受けられます。もしかすると庫と庫と繋いで30線になるような計画であったかもしれません。庫以南は空地であったようです。昭和14年前とおぼしき操車場の同区も概要は同じで、機の折返し線等が異なるだけです。まあ山陽本線の糸崎までの電化に伴い南側に電機の留置線や大型の検修庫が南側に設置され、岡山操車場が本社指定で、結果JR貨物の所有となりました。現今扇形庫は…、山陽線を主務とする大型のEF210をかかえている同区です。

倉敷でひと息つけましたので、最後に岡山操車場の配線についての輪郭を描きたいと思います。日中戦が始まろうとする頃の先に述べた昭和14年前の改造前の略図は、抱込み型ではなく上下本線の南側にあり、岡山機関区側の東側グループ、下り到着線群3線・下り仕分け線10線・宇野線着発2線が記され、線群の間にそれぞれ機廻し線が挟まっています。さらに下関方に西側グループ、下り線を平面交差して進入する山陽上り着発線3線・ループ式の同仕分け線7線・南側に下り出発線3線を含め7線が並び、引上げ・授受・機廻しに使われたようです。下り線グループと上り線グループとの間に、中継線群と宇野・伯備線の仕分け線8線が挟まっています。東京・大阪方から下ってきた貨物列車を分解組成するのに適した構造になっており、半ば直列の構造です。よって貨物輸送上段落ち箇所であったことが読み得ます。改良後の配線では、完全に抱き込み型になり、宇野連絡線と機関区線を下り本線がオーバークロスする構造になり(小さい頃ここを通過するときは爽快感を覚えたものです)、北から上り着発5線、ほぼループ式の仕分け線が上り15線・下り14線、下り着発・宇野線着発線が7線となっております。構造上白新線新潟操車場に近似しています。以降さらに南側に昭和44年西岡山貨物駅が設けられ、貨物駅から下り本線を乗越え上り線群へ結ぶ為の高架式の引上げ線(現北長瀬駅付近?)などの手が加えられました。下り線を通過する際内側に常に目を向けていた為、いつの間にこんなものが出来たんだと驚いたものです。自身は同操車場がまとまり始める所を通過する際、手が加えられた為意味を読取れず一体どんな配線かと思ったことは数知れずです。そして興奮が冷め始めた頃、水路を越え水田のなかを曲線を描いて庭瀬方へ走り下る部分で、自分は日本の風景を走っているんだといつも再認識され、やっと風景を味わえるようになった次第です(まあ一種のサガです)。現今の貨タの配線は貨物時刻表の巻末に掲げられており、削られた用地に、鳥栖や和歌山、広島等々、いずこも同じくスポーツ施設が設けられているようで…。瀬戸大橋の項では「主塔」に言い改めたく思います…長舌ですが悪しからず。

倉敷が一段落したところで、またまた、別次元で申し訳ありませんが、鉄道の話ですのでご安心下さい。
映画「RAILWAYS」、三浦友和・百恵夫妻の二男、三浦貴大氏が、映画「RAILWAYS」で俳優デビューを果たす。
の記事を雑誌で見ました。なんでも、「出雲のローカル線」を舞台に、さまざまな理由で「運転士」になった男たちの物語だそうです。
その雑誌には、JRとも一畑電鉄とも書かれてありませんでしたが、たぶんJRでしょう。
映画ですから、その人の生き方、人生観、人との交わりがテーマになるのは当然のことと思いますが、、タイトルどおり「鉄道」もしっかり表現(駅、線路(本線・側線)、引き込み線、ホーム、信号等の描写。)されたものであることを願っているところです。
「砂の器」で見られた山陰の風景、特急「まつかぜ(たぶん)」のような物悲しい走行の姿(原作では急行「出雲」)、山陽へ向かうというのに淋しさ漂う宍道の駅。(これから、奥出雲へ分け入る駅でもあるからかですが。また、私の主観でもありますのでこう表現してしまいました。)
こんなシーンが蘇り、また、こんなシーンを彷彿させてくれるものがあることを期待しているのですが・・・・・。
「出雲のローカル線」「運転士」の語句に、つい書いてしまいました。
来春、見る機会がありましたら、ご報告いたします。
ところで、今回これを書き始めてハッと気がついたことがあります。
SYさんのアルファベット「SY」は、「RAILWAYS」の最後と一つ前の文字と同じだということです。
これからとられた?
訳ないですよね。
横道に入り過ぎ大変失礼しました。ご容赦下さい。
突然投稿したのも、この「懐かしい駅の風景」に元「運転士」さんが投稿されていたのを思い出したからでもあります。

SYさん、岡山・倉敷あたりは配線的にはものすごかったんですね。貨物が整理されて大分簡素になったとは思いますが、それでも機関区あり貨物ターミナルありで重要拠点であることに変わりはないようです。
E10さん、99といえばクヤ99ですね・・・って、確かそんなヤツがあったような。
D51に比べるとD50はいかにも「無骨」という印象でした。最後の基地は若松あたりでしょうか。
TOさん、SYさんの名前の秘密によく気づかれましたね・・・そんな訳ないと思います・・・。
私も国鉄の入社試験受けたんですよ。落とされましたが・・・・。

E10さん、「D52」、小学生のころ、読んだことあります。
「D51」より牽引が強いと謳ってありました。
蒸気機関車は、見るのは好きでしたが、乗ってみるとやはり、遅すぎました。
だって、呉線のくねくねした、単線を走るんですもの。
また、せっかくスピードに乗ったと思うと、次の駅に止まる為減速でした。でも、急行「安芸」は、それでも広島-呉間を30分弱で走っていました。
いつも、「安芸」のこととなり、申し訳ありません。

f54560zgさん、是非、中国地方にも足を伸ばして下さい。
切に願うところです。

本当はおだやかな紀行文めいたものを記す方が得意と思っていますが、いろいろ仰って下さり、ありがたく思います。自身は中学から地形図を収集しただけの浅学の人間で、傾向として文系とも言えず理系とも言えず、単に地形図から地質や歴史、村落形態、産業等を最大限読み取ろうするだけの人間です。構造を時系列で知りたい、ただそれだけで、場合によれば観光でも、です。かつては会議中、ウワの空で配された紙類にレイアウトを実際描いていたタワケ者です。よって妄言も含まれましょう。SYを除いた部分、「線路わ」ですが、先に記したように「なんだかこの線路『わ』先に何かわくわくさせるようなものがありそう」、ただそれだけですし、それがファンであろうし、自身に適ったものと確信しております。なお自身は図を言語で表現するしかないもので、イメージし難たいその点苦慮めくのですが、深く容赦して下さい。

私は残念ながら蒸気機関車の引く列車に乗った記憶はほとんどありません。かすかにあるのは、信州の田舎から東京に帰るとき、「乗ったときは確かに蒸気機関車だったはずなのに、上野に着いたときは違う機関車になっている。どこで変化したんだ?」ということぐらいでしょうか。蒸気機関車という認識もなかったかも。「乗ったときと降りたときで違う形になってる」程度の印象だったかもしれません。
もう少し大きくなり、やはり田舎からの帰り。上野の地平ホームに列車が到着し、列車から降りて改札の方向、すなわち列車の先頭方向に歩き出します。だんだん機関車が近づいてきます。機関車の真横にくると一気に騒がしくなります。EF58です。生き物のように感じた記憶があります。
蒸気機関車は生き物のようだとよく言われますが、わたしにとってはEF58が生き物のようでした。

岡山機関区には思い入れがあり、また機会を改めたいと思います。 今回は108番目のコメントのようです。SLファンで108といえばC60のラスト108も思い付くのですが、やはり栄光のロイヤルエンジンC59108でしょうか。意外と思われるかも知れませんが、人気と実力のC62、そして今後脚光を浴びるであろうC61はお召列車の牽引実績がありません。既にC62やC61の配置後でもお召列車牽引はC59やC60が務めていたようです。そのC59108は梅小路機関区に新製配置後、並み居るC62達を押し退け3度のお召列車牽引をし、その後、姫路第二機関区、そして晩年は門司機関区に渡り終焉を迎えたようですが、その部品の一部は現存する保存機に流用されているそうです。   クヤ99…初耳でした。少し調べてみたら性能試験車両のようで、やはり流転の人生だったようですね。 事業用車両は、その特異性から注目を浴びる機会は少ないようですが、主な車両基地には必ず居て、通りすがりにその姿をよく目にして、なぜか気持ちが安らいだものです…。 TOさん、もしや山陽路で現役の D52と接しられたのではないでしょうか? これまでのお話から推察されるのですが…。 私の D52は勿論梅小路のD52-468ですが、小学生の頃、梅小路蒸気機関車館で同時に見た人気絶頂のスワローエンゼルC62-2より D52-468の迫力に圧倒されたのを覚えています。(更に迫力を感じたのはC59-164の後ろ姿でしたが) 後年、五稜郭機関区を訪れた時に関西よりの来訪を告げると助役さんが「ヨンロッパは梅小路で元気にしてますかぁ」と尋ねられ、ヨンロッパの言葉にキョトンとしていた私に「デゴニの468号の事をここではヨンロッパ ヨンロッパと呼んでいたんですよ」と懐かしそうに話されていたのを思い出します…。   私も現役時代の蒸気機関車牽引の列車は一度っきりしか乗ったことありません。 それも小学6年生の時に伊勢方面への修学旅行で、車両は12系客車です。 確か奈良線から関西本線に入り、奈良駅から亀山駅までの区間が蒸気機関車牽引でした。 絵の上手な同級生がいて、修学旅行の思い出の絵に特長的なデフレクターの D51が描かれていて、その時の牽引機はD51-499号機であったと思われます…。(うる覚えですが帰路は戦時型カマボコドームのD51-1007だったような…)翌年には加太越えも無煙化されてしまったので、最後期の蒸気機関車牽引の修学旅行列車だったようです。   SYさんのお言葉の「なんだかこの線路『わ』先に何かわくわくさせるようなものがありそう」…… 私は旅馴れぬ頃は行く先々に期待と不安でしたが、旅装にも馴れてくると正しく SYさんのお言葉通りで、次に自分を待ち受けているものはなんなのだろうか… そんな想いに駆られながらの全国行脚だったような気がします。 鉄道趣味界の皆さんの視点はそれぞれ違えど、行き着く先はこの SYさんのお言葉に尽きるのではないでしょうか…。 昨今の情報化時代にあって、「わくわく感」が薄れつつも「線路は続くよ何処までも…」です……。

少し早起きをしたので、投稿。今月のRP誌はターミナル特集です。読了していないのですが、稚内駅が特集され、区と稚泊航路設備が掲載されています。先ずは配線と機能。また宇高連絡等の航走輸送が若干話題になり、稲佐山(多分鯨=勇魚が由来か?)から見た長崎港駅に言及されておられたり、外国へつながる港駅の設備に少し興味を持ち出しました。長崎港なら中国大陸へ、下関駅や博多港駅なら釜山だし、外に敦賀港もあったし…“f54560zg”さんが異端だからと仰せだったのは、逆に言えば、視点が固定的な主流ではない、自由度を有しているんだという姿勢なんでしょう。よっていつも多方面に亘り正確で広範な知識を披露され得るんだと思い知らされます。その自由度の源泉は、好奇心と正確な好奇心なんでしょう。見習いたいものです。

いや表現が違いました。ご自身の好奇心と正確さをメカニックに追求する真摯さと表現力、そしてそれらを裏打ちする熱意、そう改めさせてください。

いや表現が違いました。ご自身の好奇心と正確さをメカニックに追求する真摯さと表現力、そしてそれらを裏打ちする熱意、そう改めさせてください。

いや表現が違いました。ご自身の好奇心と正確さをメカニックに追求する真摯さと表現力、そしてそれらを裏打ちする熱意、そう改めさせてください。

E10さん、夜更かしし過ぎです。もっと早く寝て下さい。
SYさん、早起きし過ぎです。もっとゆっくり寝ていて下さい。
E10さんのコメントで思い出しました。私も小学校の遠足で蒸機牽引の列車に乗りました!
成田線我孫子→成田ですので、C58かC57か・・・。蒸機だということははっきりしているのですが、いかんせん遠足ですから好き勝手に機関車を見に行けるはずもなく、詳細は不明です。帰りも蒸機列車を期待していたのですが、残念ながらDCでした。
RP誌、買いましたがまだほとんど読んでいません。後々ゆっくりと読みましょう。

残念乍ら、私はD52と接したことはありません。
しかし、何回か前に投稿したものを読み返していますと、瀬野・八本松のところで、引用とはいえ、D52のこと触れていました。
改めて、その出典の本を見て観るに、瀬野-八本松の急峻で大きく右にカーブする坂を「かもめ」の後押しとして必死に任務を全うしている姿を確認することが出来ました。

その炭水化車の上に、何故か助手と思われる人が腰掛けている写真でした。

補機といえばなぜか4110やE10が浮かんでしまいます。D52に「補機」としての役割はちょっともったいないような気もしますが、大幹線で優等列車や長大列車の後押しであればD52にふさわしい任務ですね。
炭水車の助手さん、落ちないで下さい。

今現在、伊万里焼の伊万里駅近くの深夜スナックで忘年会をしています。
始発までの予定です。

伊万里駅は、分断されてしまっています。

以上今日は、お終いです。

ちょっと前は神田でしたよね?今度は伊万里?
TOさんの出没範囲はかなり広そうですね。

特段行動範囲が広い訳ではありません。
今現在長崎県に居るだけです。
自分は、いつまでたっても急行「安芸」であり、「出島」であり、「音戸」であり「吉備」に過ぎないのです。

連続で申し訳ありません。

ということで、広範囲に行動していると錯覚なさっておられるのかもしれませんが、何にしても生まれてこのかた、半世紀以上ですので、列車乗車距離、範囲は結構なものなのかもしれません。

明日、いや、もう今日になりましたが、広島まで正月休みで一旦帰りますが、駅駅の風景で印象があればお伝えさせて戴きたく存じます。

と言っても、有田駅-博多駅間は単調で特筆することはなさそうですし、博多-広島間も新幹線ですので期待薄です。

一年前でしたら、鳥栖を過ぎた頃「富士」のかたわれ熊本行き「はやぶさ」と擦れ違う楽しみがあったのですが・・・・・・。

肥前山口です。
特筆ではありませんが、長崎からの(赤い?)「かもめ」号と少しだけ併走。
今、併結が終わり出発したところです。
ここから複線となり、水田地帯を快走しています。
「かもめ」号は、やはり「白い」方がいいですが、「みどり」号との併結では致し方ないないですか。
と書いている間に、佐賀に到着です。

TOさん、東小倉とか、今はいったいどんな感じなのでしょうか。新幹線からは見えないんでしたっけ?

すみません。
来年レポートします。

よろしくで~~す。

ずいぶん間の抜けた返答になりますが、旧正月おめでとうございます。

ついこの間、鳥栖を通って伊万里の先まで帰りました。

鳥栖駅も、なんか線路が疎らになって往年の活気が感じられませんでした。

生粋の九州人で無い私がこんなことを言うとお叱りを一杯受けると思いますが、・・・・・・・。

反論お願いいたします。

TOさん、ご無沙汰です。
私も生粋の九州人ではありませんし、また直に見たことはありませんが、写真その他で見る限り最盛期の鳥栖ってモノすご~い巨大な駅だったわけですから、TOさんと同感です。駅自体もそうですし、駅前なども活気がない・・・・。
ところで東小倉レポートは?

ご無沙汰しています。

昨年暮れからずーっと忙しくて、その間東京へは三度も行きましたが(勿論新幹線です)、「東小倉」の様子まだお伝えできそうにありません。

何時も気に掛かっており、忘れているのではありませんので、しばしお待ち下さい。

TOさん、お久しぶりです。
東小倉お待ちしています。
それに、三度の新幹線車窓レポートもぜひお願いします。

新幹線での九州入りは博多駅でなく小倉駅を利用したことがよくありました。 昭和60年秋の初めての九州行で、門司駅から博多駅までの鹿児島本線の車窓が印象的だったからでしょう。 門司駅を発車後、国内最大級の門司機関区を見て小倉付近までも連続する貨物ヤードに折尾駅と室木線の分岐駅だった遠賀川駅。そして機関区の在った香椎駅と吉塚駅。 しかしながら最も印象的なのは、香椎操車場の項でSYさんの触れられていた西鉄多々良川橋でしょうか‥。 場所は東小倉だったのでしょうか、当時から貨物駅ホームの側線ような所に緩急車を含む冷蔵貨車の短い編成が何年間も留置されており、以前は山陽本線をEF66に牽かれて活躍していた姿を思い出し、既に動かなくなっていてもその姿を見るのも楽しみでした…。

年末より体調がすぐれず、新鶴見から最近の国府津までコメントのタイミングを逃し申し訳ありませんでした。

E10さん、お体大丈夫でしょうか。夜遅くにコメントなど書いてないで早くお休み下さい。
2001年に東小倉を訪れたときにもまだレサとレムフ、あとワサフ(orスニ)が留置されていました。色あせてちょっと痛々しい姿ではありましたが・・・。

f54560zgさん、お気遣いありがとうございます。 f54560zgさんのブログが良薬となっており、国府津の項は特効薬となったようです。 白い冷蔵車やクリーム色のホッパー車とか朱色の自動車運搬車など、黒色の貨車ばかりの貨物列車に混じって走っている姿は編成内の良いアクセントとなり、無蓋車やタンク車などを含め国鉄時代は通過する貨物列車を見るのも楽しみでした。 貨車一両分がコンテナ数個の形態に変わり、今ではほとんどの貨物列車が多種多様のコンテナ列車となりましたが、以前の貨物列車のような魅力を感じるには、まだ少し時間がかかりそうです…。

見た目のカラフル(?)さと共に、不規則なジョイント音も大好きでした。
コンテナになって味気なくなりましたが、どちらかというとそれを引っ張る日本離れしたような形態の最新の機関車についていけません・・・・。

f54560zgさんのおっしゃる通り、昨今の機関車に付いていくにはしんどいです。 心情的には DF200とEF200までならなんとかと言うところですが…。 前々から感じていたのですが、昭和30年代辺りまでを知るベテランファンの方々はEF60やED75などか進出してきた時期に、今とは時代背景が違うとはいえ当時はどのようにお感じになられたのでしょうか…。
それと、今月の趣味誌は盛況ですね。 何が?と言いますと、勿論f54560zgさんのブログ内容に関しての趣味誌の記事です。 それもいつものように趣味誌の編集者と申し合わせたようなタイムリーな内容です。
鉄道ピクトリアルに関しては東北本線特集と言うことで、最近話題の青森や仙台に以前の黒磯など。 またレールマガジンには一戸機関区の扇形車庫とf54560zgさんが列挙られていた国府津の D52達。 それにN社の季刊 国鉄時代には国府津機関区の扇形車庫が出ており、次号は北九州特集だとか。 更に聞き慣れぬ新鋭誌のノスタルジックトレインなる季刊誌には東海道線特集で米原や吹田の配線略図が出ています。
f54560zgさんのブログ記事を拝見しながら趣味誌を見ますと、なるほどこれが‥、そうだったのか‥、などの連続です。 これもブログ記事の写真や配線図ひとつひとつに対する f54560zgさんの文の記載や、記事への皆さんのコメントと、それに対する f54560zgさんのコメントのお蔭さまです。
前出、SYさんの新鶴見のコメントや最近の皆さんのコメント同様、何十年かかっても知り得なかったであろう欲しかった情報が f54560zgさんのブログにて得られている現実が、正しく夢のようです。

私がEH500やEF200に対して持つ感覚と同じものを、ベテランファンの方はEF60やED75にお持ちになったのかなァ・・・・と思いましたが、いや、そんなことはないですね、きっと。ただ単に私個人が古いものにこだわりすぎて新しいものを受け入れようとしていないんだと思います。いけませんね。
私にとって最も趣味活動が活発だったのが昭和50年代頃でして、その頃の写真を見たりお話をお伺いすると大変懐かしく感じます。それより以前のものでも以降のものでもダメですね。多分、今の若いファンの方がこのブログの写真をご覧になってもそれほど感じるものはないのではないかと思います。ですから、このブログをご覧になって懐かしさを感じていただけるのであれば、それは同じ時代を生きてきた証ということになるのかと思います。

一ヶ月程前に、肥薩線の吉松駅構内の外れにある、旧吉松機関区の転車台跡のピットが掘り起こされたそうです。 矢岳駅に保存してある、重装備D51170号の復活の布石となるのでしょうか、期待感が高まります。
吉松は、吉松機関区の転車台や短形庫が残っていた時も含めて数回訪れましたが、10年程前に久しぶりに訪れた時は既に転車台は宮地駅に移設され、SLあそBOY用に使われていたようです。
その時、埋められた転車台跡を見ていたら、コンクリートのピット側壁が円形に確認できたのですが、不思議なことに少し離れた場所にもコンクリートの円形状の物があり、もしや吉松には転車台が2基あったのか、それとも転車台を大型に増設したのか、もしくは自分の見間違いなのか、今だに謎です…。
転車台好きにとっては、埋められた転車台跡や、転車台を撤去した大きな穴を見るだけでも興味深いです。

蒸気機関車は消えても、費用がかかるためでしょうか支障のない転車台はしばらくそのまま放置されていましたね。埋められてしまっても、円形の痕跡を発見するとドキドキしたものです。

本当にお久しぶりです。
「吉松」に反応してしまいました。薩肥線でしょうか?元々は鹿児島本線ですよね。 何年か前、鹿児島空港から飛行機をキャンセルして、矢岳、真幸、大畑(おばこ?おこば?)のスイッチバック、ループ、スイッチバックを堪能して「相良藩願成寺」を経由して「人吉」まで、嘉例川若しくは喜例川からディーゼル列車に乗り込だんわけです。

下りのループは日が暮れかかり、大畑に着いてのスイッチバックは日もとっぷり暮れ虫の声があちこちから聞こえてくるだけでした。

感動しましたが、でもやはり「出雲坂根」のそれとは比較にならんのーと思った次第です。

以上です。

追伸

分水嶺の有無?でしょうかね。

追伸の追伸です。

すみません。薩肥線でなく、肥薩線の間違いでした。

TOさん、ご無沙汰です。返事が遅くなり申し訳ありません。肥薩線も出雲坂根も知らない私ですが、上越線・湯檜曽あたりのループ線はすごいと思いました。やってきた電車がトンネルに吸い込まれ、しばらく後に全く違う方向のトンネルから姿を現すのには感動しました。

いつも、的確なご返事有り難うございます。
いつも自分中心のコメントばかりで、投稿の都度、「しまったあ」と後悔しています。(東小倉のことはもう暫くお待ち下さい)。
連休で九州から広島に帰省し、また、九州へ帰って来たのですが、小倉駅に列車(新幹線)が入る寸前右後方を眺めただけに終ってしまいました。

博多からいつもどおり、「みどり」「ハウステンボス」「(赤い?)かもめ」の混成列車に乗って帰って来たところです。
特筆することはありませんが、「新鳥栖(九州新幹線)」駅はほとんど完成していました。しかし、在来線の方は全く何も手付かずのようでした。
私の思い込みと思いますが、あと1年後?この「新鳥栖」駅に「かもめ」「ハウステンボス」「みどり」がこの駅に停車するのかと思うと、・・・・・・がっくりなんです。
鳥栖から鹿児島本線を跨いで、最速で軽快に飛ばすこの特急がのろのろ運転をするのかと想像してしまうのです。

f54560zg殿。

是非、出雲坂根、肥薩線の車窓はこのブログを立ち上げてらっしゃる以上は、体験されるべきと思います。

生意気なことを言いましたが、・・・・・・。

新鳥栖駅は在来線にホームを作るのか作らないのかハッキリしていないようですね。仮に作るんだったら、鳥栖通過・・・・なんてことはないですね。
出雲坂根に肥薩線、おっしゃるとおり行ってみたいんですがいかんせん遠い!でもいつかは・・・。

極めて申し訳ない主張なのですが、西日本「戯れ言」・「たわけたこと」、「実際はこんなんだ」というページを設けて頂いて良いのではないでしょうか。なんかもう容量的にはもう一杯な感じで、もし出過ぎていたなら心底すいません、です。ですが、それぞれの仰せに得心がいっており…。

SYさん、ご提案ありがとうございます。
どうしましょうか、ちょっと考えます。

暫くでした。

まだまだいそがしくて、お約束はたせそうにありません。

久方ぶりに拝見させて戴いたところ、「JR西日本」が話題にあがっていましたので、つい書き込みしてしまいました。

以前、呉線の「休山トンネル」のことを書きましたが・・・・・・、そう、あの出口が針の先ほどに見える現象のことを言いたいのです。
YOU TUBEで「安芸阿賀」駅を検索して戴くと呉駅を出発し、昔の引き込み線の名残を微かに残す配線を右手に見ながら、ゆるやかなカーブを登り、トンネルに吸い込まれる画像が見られます。
そして、その先にある小さな光。
結構面白いですよ。

以上

TOさん、お久しぶりです。
動画拝見しました。列車の先頭部からトンネル内を見た記憶がありませんので(最後尾からはあるのですが)新鮮でした。光に向かって突き進んでいく、何か神秘的と言いますか宇宙空間的といいますか、そんなものを感じてしまいますね。
それと、最初の踏切で右から大型バスが突っ込んでくるのではないかと、一瞬ドキッとしました。
(多分運転士さんもドキッとしたのでは?)(笑)
ほかにも面白い動画あったら教えてください。

とうてつ書店 懐かしいです。
月極(?)で頒布されていた局報を受け取りに通っていました。良い時代でしたね。

検索かけてみたら、お店自体は健在の様で少し驚きました。機会があれば行ってみたいですね。

参考アドレス
http://www.chibiz.jp/modules/network/index.php?E_id=343&op=_detail

うわぁ~、今でもあるんですね、とうてつ書店。名前もそのままに!いやぁ、驚きました。
局報は郵送もしてくれたんですが、郵便代がバカにならないので私も取りに行ってました。そうそうしょっちゅうは行けませんでしたので結構溜まってしまいっていました・・・(汗)。

ご覧戴けたのですね。ありがとうございました。逆方向からのものもあります。すぐ探せると思います。以前投稿した時は、その逆方向から後方を見た時の様子の記憶を書いています。光が点になり、消えるかどうかの瞬間に少し右にカーブするわけです。
お気づきになられたかどうか。進行方向右に引き込み線がありました(今は撤去されていますが)。ご覧になられた(呉→安芸阿賀)でなく、逆方向(安芸阿賀→呉)の画面では、その引き込み線の名残も鉄橋のあたりでかすかに感じて戴けるかも知れません(バスが迫って来た辺りです)。
また、こちらの画面の方が室内の光が反射せず、より神秘的に見えます。轟音と後ろへ流れ去る蛍光灯。こちらも神秘的です。
呉駅も現在はたった3本の線路しかありませんが、ご覧になられた右側にはかつては何本も線路があり、敷地が広がっていました。
今はビルになっていますが、(たぶん)工場の中へ入る線路までありました。線路配線図的には芸術的な構図だったと思っています。と言うより、機能美と言う方が正しいのかも知れません。

TOさん、逆方向もしっかり拝見しました。
車内の反射もなく前照灯の光もなく真っ暗な中、まさに宇宙空間ですね。トンネル壁面の照明が流れ星のようです。
私もそのうち動画を公開しようと思っていますので、その際は見て下さいね(東日本ですが)。

東小倉。

やっとで行けそうです。

小倉から門司。先程往復して来たところです。〔なお、本文は8月28日(土)の14時ころから小倉駅7・8番ホームの上で書きだしましたが、何度も書き直しているうちに今となってしまったものです。〕
小倉駅から出発してすぐにヤード(跡地)らしきものが広がります。下り線は遥か右手です。その上り線と下り線の間にあったと思われる線路群は結構剥がされており、中程にある建物(ホームがあり、かつては荷物の積み込みをしていたのでしょうか)はかなり老朽化していました。貨物列車は停車していません。コンテナの集積地になっています。そこから少し行った小倉ー門司の中間辺りからは幾本のレールが本線と平行して曲線を描き、以前見た線路の記憶が蘇ってきました。多分夜間通過した時、蒸気機関車が隣の線に迫って来たところはここだったのでしょう。そして、草木たなびく門司駅に到着です。
小倉ー門司間はかつてはずーっと数本の線路があり、かなり広いヤードだったと思います。この間が「東小倉」なのでしょうか(時刻表には「東小倉」は載っていませんので小倉ー門司間全てなのかどうなのかはわかりません。このあたりのことは、よくご存知のことと思いますので解説戴ければ嬉しいです。)
この区間は昭和40年代に2回、20数年前、5年前(この時は「あかつき」に乗った時で寝ていましたので外の風景は見ていません。)と何度か通ったことのある路線ですが、先程の数本の曲線部分は記憶がありました。
門司駅は島式3本で、6面ものホームがありますが、草木も多く何か閑散とした感じでした。
かしわそばをかき込み(博多駅ホームにもありますが、門司駅の方のものが味も濃く自分にとっては合っていると思います。余談でした。)、すぐ、門司港から来た列車に乗り小倉へ引き返しました。
下り線では来るとき見えなかったディーゼル機関車、電機機関車数台が確認できましたが、塗装も乾燥(変な表現ですが、お分かり戴けると思います。)しているようで瑞々しくなく、活躍してないような印象でした。
門司駅は、活気が感じられませんでした。
小倉駅は、次々と特急列車が発着し旅行客も多いのですが、門司駅は、単なる一地方の大きな駅といった感じでした。土曜日の午後だったからかも知れません。
今し方、小倉駅8番ホームの隣の線路を門司方面から来たコンテナ列車が通過し、少しして、そのまた左の上り線をステンレス製の電機機関車が2両編成で門司方面へ走り去って行きました。こちらも以前見た時の銀色の輝きは感じられませんでした。
門司駅寄りの本線と平行に走る数本の線路は健在のようでしたが、ただ線路があるだけで何か寂寥感漂う感じの小倉ー門司間でした。

・東小倉駅
そうですか、線路はだいぶ剥がされてしまっているのですね。一方で貨物ホームといった建造物は老朽化しているとはいえまだその姿をとどめているようですね。貨物駅としての機能はかなり前からすでに停止しているようですが、大きな変貌を遂げるにはまだ時間がかかりそうですね。
・門司~小倉間
この間には大きくは上記の東小倉という貨物駅と門司操車場の2つがありました。「幾本のレールが本線と平行して曲線を描」いている部分が東小倉なのか門司操車場なのかはわかりませんが(汗)。門司操車場は廃止されて北九州貨物ターミナルという貨物駅に生まれ変わりましたので、この部分については活気があったのではないかと思います。
・門司駅
機関車牽引列車全盛の頃は、門司駅では機関車の付け替えが頻繁に行われ、相当な賑わいがあったんだと思います。電車化が進んで機関車交換の必要がなくなり、新幹線も小倉に駅が設けられて門司は急速に寂れてしまったようです。私が訪れた2001年の時も、小倉の賑やかさに比べた門司の寂れ方は衝撃的でした。
レポートありがとうございました。

「幾本のレールが本線と平行(若しくは並行)して曲線を描く」というところは、門司駅から出発して少ししてのところですので、仰せの「門司操車場」のことと思います。
私は、東小倉は小倉ー門司間全てがそうと思っていましたが、そうではなかったのですね。
それにしても、本当に大きなヤード(跡地)でした。昭和40年代に最低2回は見ているところなのに貨物の賑わいは思い出せません。玄界灘に火を噴く煙突と横から迫る蒸気機関車だけははっきり覚えています。

私も貨車で賑わうヤードをいくつも見てきたはずなのですが、やっぱりあまり記憶がありません。当時はそれが当たり前の、何ら変わった風景ではなかったからではないでしょうか。

そうですね。
うーん。やはり、それが当たり前だったですね。
当たり前は当たり前として、「東小倉」否「門司操車場及び東小倉」のヤードは鳥栖のそれより、岡山のそれより広大だと心底思いました。

「門司操車場及び東小倉」にはかないませんが、鳥栖も結構スゴかったと思います。門司以上に今は見る影もありませんが。

仰せのとおり「鳥栖」駅も広大だったと思いますし長崎に帰る都度、今でもその片鱗に触れることがあります。
しかし、如何せん「鳥栖」は「小倉」「門司」「門司港」と違ってその駅の最盛期・成熟期を目の当たりにしたことがありませんのであの様な感想となった次第です。

鳥栖 門司 岡山 この地名を聞くだけでわくわくしますね。
鳥栖は構内で2基の転車台を見た最初で最後の地でした。 岡山は思い入れがあるのと新幹線で西進する時、岡山駅を出発してから見えてくる線路群や車両群にいつも目を見張っていました。今ではかなり様変わりしましたが窓際にくぎ付けになるのは今も変わりません。

話題の門司ですが、鉄道ジャーナル誌を初めて手にしたのが73年頃で、その時は少し前に初めて訪れていた梅小路蒸気機関車館の記事に惹かれて購入したのでしたが、メインの特集記事として門司が記載されており早くから門司の地名には憧れていました。
85年頃から「富士はやぶさ」の終焉近くの時期まで何度か門司近辺に行きましたが、最近感じることは皆さんと同じのようで、喧騒感とまでいかなくとも小倉の華やかさに比べ門司のガランとした印象は、訪れた旅人の胸にいつまでも残る風景なのでしょう…。

再び「小倉」・「門司」、そして「門司港」・「下関」。
先週「小倉」「(東小倉)」「門司」の様子を見たばかりなのに、また見たくなり再び「小倉」へ行きました。
博多から白いソニックに乗り込みます。先頭車両なので前列に来て前面の様子を携帯で映している年配の方がいらっしゃいました。私はテツではないので?、そこまではしませんが、できる限り目に焼き付けておこうと思っています。
列車は快調にとばします。折尾、黒崎を経てあっという間に小倉。たぶん、折尾からは貨物線が分岐し、門司まで複々線となります。行く時は南側でしたので確かめられませんでしたが、帰りは北側に座り、確かめました。関西近郊、東京近郊の複々線にはかないませんが、かなり長い区間北側に3本のレールが眺められるだけで幸せです。
すぐ向かいの門司港行きに乗り込み倉庫群?を抜け門司港に近づくと前面に関門橋が見えるではありませんか。門司港は20数年前(覚えてないものですねえ)に来たことはあるのですが、関門橋が見えた記憶はないのです。勿論、その頃既に開通していたことは確かです。
とにかく門司港駅に到着。門司港駅の様子は帰りに見ようと思い、船で下関に行こうと思い立ったのです。(この時点では、すぐ折り返し、門司港に引き返すつもりだったのですが・・・・・。)
下関行きの桟橋は駅を出て左方、道路を挟んですぐのところです。
海の色はなんと表現していいのかわかりましせん。深緑(としか表現できませんが・・・・・・・。)で、かなり水深は深いことが想像されます。
対岸の高層建物がパノラマのごとく見え、こっちに来いといざないます。
潮流がはっきり目視できる海峡(まさに海峡です)を数分で渡り本州下関へ。
着いた瞬間、門司港へ引き返すことは忘れ、ここまで来たんだから下関ー関門トンネルー門司のルートで帰ろうと思い立ち、バスで下関駅へ。時々写真で見る駅舎ではありませんでした。(ここは東口でした。)
下関駅は島式ホーム3本6面、3・4番、5番無し(多分回避線か通過線)6・7番、8・9(9番の文字は読み取れませんでしたが間違い無いでしょう。)番です。(1・2番ホームはどこにあるんでしょうか?)
かつては、寝台特急「あさかぜ」少し前は寝台特急「安芸」遥か昔は寝台急行「音戸」の始発駅であり終着駅だった下関駅。感慨深いものがあり、残映を感じます。山陰線の赤いディーゼル機関車に牽かれる客車でもあれば、旅情を醸し出すかもしれませんが、2両編成のうち1両は広島の芸備線ホームで見られる白と黄色(山吹色)の車体がのどかに停車している状況はぱっとしません。もう1両は、赤とピンクの中間で、かつての山陰線の主流のようだったと思われる車両で、かろうじて山陰の入り口といった感じでした。ここ下関も何だか閑散とし、ホームには虚しく飲料水の自動販売機があるだけでした。
と、そうこうするうち、幡生方面から下関止まりの列車が到着し、結構な人が向かいのホームに来る九州は小倉行の電車を待ちます。当然自分もその中の1人として小倉行を待ちます。
少しすると博多駅で見慣れた白と(濃い)ブルーの通勤電車が門司方面から到着。折り返し、小倉行となり発車を待ちます。関門トンネルの眺望を楽しみに先頭車両に乗り込むも運転室のカーテンを降ろされがっくりでした。
何メートルか下の左右に広がる線路を見ながら次第に下りいよいよ関門トンネル。僅か2分4、50秒で出口でした。
小学校の修学旅行の時のような興奮は覚えませんでしたが、何だかすっきりしました。
そして、また閑散とした門司駅に舞い戻ったわけです。
つい(2時間前にも通っていますが)、1週間前に来たところなので、静寂感、閑散感の落差はさほどありませんでしたが、やはり物悲しくなりました。
小倉ー東小倉・門司操車場ー門司ー門司港ー下関ー小倉と、ただただかつての重みのある駅を眺めて来ただけの報告となりましたが、お読み戴き有難うございました。

 こちらに舞い降りるのも久しぶりです、申し分けないです。少々他の箇所で気を揉んでいたもので…、ご了承賜りますよう。
 “TO”さんが見事に描破されて、しかも受ける印象もそうだろうと納得しております。感服至極です。小倉~北九州貨タ(旧門司操車場)、門司駅や下関駅(ともに機関車の交換で繁忙をきわめて来た筈ですが)の雰囲気を正確にお伝え下さりありがとうございます(残念ながら下関駅舎は故意に焼失してしまったのですが…)。関門両サイドの衰勢はファンとしては辛くて、下関駅の運転所へ直流機関車を送る中線のうらぶれた草まみれの線路の姿に溜息をついてしまいます。JR西日本と九州が新幹線という形で連携し始めると、実際地域現場の在来はどうなるのか?でしょう。直で高速で繋がる部分は脚光を浴びるのですが、地道で運営されている部分に関心(や予算)が薄らいで仕舞うことに可成りの不安も強く覚えています、いきおい都市部だけに気配り(例えばダイヤ)が為されていくような。抗いようもないのでしょうか。

TOさん、再度のご訪問、お疲れ様でした。
東日本の住民にとっては、正直うらやましい限りです。
「私はテツではない」・・・ふ~ん、そうですか...。
「運転室のカーテンを降ろされ」お気持ち、お察しします。

E10さん、鉄道ジャーナルは1973年1月号ですね。私は門司に関する記事が見たくて3年前ぐらいに買いました。今読んでます・・・。

SYさん、門司も下関もかつての栄光が巨大過ぎたんでしょうね。これからは現実にマッチした姿に変わっていくのでしょうか。

f54560zgさん、 SYさん、 E10さんはじめ、ここに登場される皆さん本当に鉄道に詳しく驚いています。(SYさんの久方ぶり?のご降臨に一役かえて光栄です。)
私は投稿当初にも書きましたように、写真の掲載も出来ませんし、ましてや動画の貼り付けなど夢のまた夢です。
暫く列車・線路のことから興味が遠のいていましたが、今回を契機にまた、もぞもぞと線路や列車を見たい欲望が這い出て来たところです。

ところで、線路配線の設計は如何にして作成されるのでしょうか?
鉄道敷設当初の頃は、イギリス・ドイツなどヨーロッパに模範となるような駅があったのでしょうか?
また、有名な設計技士はいるのでしょうか?
はずれた質問ですが・・・・・・。

宮脇俊三さんの士幌線の末端区間の紀行文を連想させるような TOさんの文章力に思わず見入ってしまいます。
それに、線路配線の設計に関する素朴なる疑問を披露されたことにも感謝いたします。
国鉄民営化直後、当時の篠ノ井機関区を訪問した時、それまでに数十ヶ所の機関区を訪れていた経験から、ELやDLが滞在するのに篠ノ井機関区構内の配線があまりにも見事に感じ、事務所で助役さんに機関区構内の配線は誰が考えるのが聞いてみたところ、工事局とかが考えて造ると聞いた覚えがあります。
実際の詳細は解りませんが、それだけを耳にしただけて妙に納得したことを思い出しました。

f54560zgさんも同誌をお持ちなんですね。
私にとってはほんとに印象深い本です。
今では実家の本棚で20年以上眠っていますが、それまでは何十回も見返した愛着のある号誌です。

それと先週、弁天町の交通科学館に行ってきました。
DF50やDD54にDD13の鎮座している第2展示場に行くと、いつもはヨーロッパ型の鉄道模型が展示されていた館内に、第一種電気連動装置なる大きな箱状の機械が展示されていました。
吹田操車場の信号所で50年以上稼動していた装置だそうです。
更に、戦前の京都駅信号扱所の連動装置取り扱い風景なるビデオも映されており、連動装置の稼動風景やD50140号と流線型のC5520?等の走行シーンが映し出されており、非常に貴重な資料が展示されていました。

また当日、ナシ20食堂車で販売していた駅弁を食べ終わり屋外ホーム展示場で C6226号を見ていたら、何やらメジャーを持って運転室辺りを計測している人物に巡り会いました。
いろいろお話しをしていると、鉄道全線全駅の踏破記録を打ち立てられた知る人ぞ知る、杉原巨久さんでした。
定年後の現在、ライブスチームでのC62を5分の1のスケールで完成を目指し資料集めに来館されたとのことでした。
写真家の広田尚敬さん、「岡山より汽車を求めて」の著者 故牧野俊介さんに続いて趣味界の著名な方に巡り会いました。
意外な場所での意外な出会い… f54560zgさんのブログを通じて知り合った皆さんとの出会いを含め、鉄道趣味にはさまざまな感動と出会いがあります。

「杉原巨久」氏。何かで読んでいます。確か、必ず改札を出て、駅に降り、駅から乗り込んだ証しをされ、運行ダイヤによっては進んだり引き返されたりしながら偉業を達成された方と認識しています。
テツではないのであやふやですが、何かしら見ている、読んでいるということはやはり準テツくらいの称号は戴けるのでしょうか?。・・・・余談です。
「杉原巨久」氏で検索してみたところ、いきなり明け方の呉線広駅で出発を待つ2台の蒸汽(気?汽?どちらがより正しいのかこだわるところですが、今回は汽と敢えてしてみました。)機関車とそれに牽かれる(正確には牽かれる前の)客車(たぶん10両以上)の紹介がありました。(「杉原さん提供の写真」の項)。
広島行きです。広島方向に向いて停車しています。広駅には転車台がないので、広島から広への上りの蒸汽は逆向きで走っていたようです。後になって知ったことですが・・・・。
こちら側(西南西側)からのものは初めて見ました。線路を挟んで東北東側からのものは3台の蒸汽が映っていたと思いますが、客車の最後尾までは写ってなかったと思います。列車の右側には10数本の線路が敷かれ、貨物の線になっていました。今はその貨物の線はありません。そして、一番外側から(写真右手手前から)工場?へ続く引き込み線がありました。さらには、写真前方左奥方向には端頭式(という表現が妥当かどうかはわかりませんが、行き止まり)の貨物の線が扇状(というより三角形状)に10数本こちらに向かって広がり、こちら側でも貨物の入れ替えをしていました。今は線路は剥がされてコンテナの集積地になっています。
当時の時刻表からすると朝の当駅始発は3本(4本だったか)の広島行があり、それに糸崎からのも加えると4本連続(5本だったかもしれません)で蒸汽機関車が走っていたことになります。当時カメラを抱えた人を多く見かけましたが、蒸汽なんて珍しくも何でもなく、当たり前と思っていた自分はあまり関心はありませんでした。いつも引き合いに出してしまう急行「安芸」も蒸汽機関車から電気機関車牽引に変わるのだろうくらいにしか思っていませんでした。日付は昭和45年9月26日。(中学校2年の時です。)10月から遂に呉線も電化されるという、本州蒸汽終焉間近のものです。上には架線がありますが、私は意外とこの架線と終焉間近の蒸汽機関車が一緒に写っている写真が好きです。最後の最後まで走り通す、といった気概を感じるのです。また、蒸汽機関車のように脚光は浴びませんでしたが、あのくすんだような肌色と赤い色のディーゼル列車もやはり最後の最後まで、電化の前日まで走ったんですね。

ということで、また、書き込みしてしまいました。

最後に質問ですが、杉原氏にこの「懐かしい駅〜」のことお話しされたのでしょうか。もし、されていて、ご登場して戴ければ・・・・と期待しているところです。登場が無理でもいろいろとお話しされたと思いますので、その時の様子是非お聞かせ願いたいと思っているところです。

蛇足
ところで、意地悪な問題ですが、広駅の当時の線路配線図、今までの話から想像で描けますか?
といっても、今までの話しだけでは無理なのは当然なので追加で書き加えます。
①勿論単線です。
②写真左手に駅舎があります。
③三番ホームまでです。
④島式ホーム1本です。
⑤左手奥の部分は貨物の入れ替えの為、数十メートル本線と平行して1本線路があります。
⑥写真後方右手にも1本、何かの工場の荷物を積む為か何かで広島方向に線路が敷いてあります。
⑦列車が停車している後方右手にも少し短いですが、2本線路があります。
以上ですが、時間があれば、気楽な気持ちで描いてみて戴ければ幸甚に存じます。

先程のコメント1箇所訂正させて下さい。
東北東側からでなく、西北西側の間違いでした。(頭の中で単純に反対側を描いたようです。)
失礼しました。

E10さんおっしゃる通り、TOさんの表現力・文章力には驚かされます。妙に温かみがあって、知性が感じられて・・・。ひょっとして実は「スゴイ人」だったりして・・・?
>線路配線の設計は如何にして作成されるのでしょうか
●このご質問は難しすぎてお答えできませんね(汗)。
>弁天町の交通科学館
●うわぁ、行ってみたい。でももし大阪まで行ったら、線路めぐりで精一杯のような気が・・・。
>広駅の当時の線路配線図
●挑戦したいと思います。

私は、ただのしがないサラリーマンなんです。

鉄道が好きなだけです。

TOさん、
>鉄道が好きなだけです。
立派な鉄だと私は思いますが。

TOさんの「架線と終焉間近の蒸汽機関車が一緒に写っている写真が好き…」の文面がいいですね。
日豊本線の C61等の写真を目にした当時、TOさんのおっしゃる呉線の情景と同じで、今もそうですが当時はその写真を見て言葉に表すような感性も持ち合わせておらず、TOさんの文面に長年の想いが叶えられた気持ちです。
私が広駅に思い入れがあるのでそう感じるのかもしれませんが、TOさんの呉線のお話しはいつお聞きしても郷愁感の中にも新鮮味があっていいですね。

TOさんのご質問のことですが、「懐かしい駅の風景線路配線図とともに」のことは後日にお伝えしました。それと杉原さんとの交通科学館でのことですが、いつもながらの私のコメントのように泡唾を飛ばしながら私が一方的にしゃべっていただけでして、中身は広島地区や呉線にセノハチ、梅小路に C62等や、関東地区、高島機関区のことなどの話しだったと思いますが、杉原さんは専ら聞き役に徹しておられました。

配線図巡りの旅師 f54560zgさんと、全線全駅の覇者である杉原さんとの出会い・・・
TOさんのお言葉にワクワク感とドキドキ感を覚えてしまいます…。

E10さん、先のRJ1973年1月号は門司に関する記事が見たくて購入したのですが、同じくRJ1970年11月号にも「門司24時間」という記事があり、こちらも購入しました。このRJ1970年11月号の特集は「電化前夜」で、すなわち呉線と鹿児島線の電化直前の様子が掲載されています。C62やC59の最後の雄姿が印象的でした。

早岐駅の転車台。まだあるようです。
今日、佐世保駅に久々行ったとき構内で昔の早岐駅の転車台付近の線路、機関車をテーブルの上に並べて再現されている方がいらっしゃいました。
この方に聞きますと、もう少しで撤去されるが、少なくとも3年前迄はイベント列車の関係で転車台が稼働していたとのことでした。
1年前、早岐駅の様子をお伝えした時、転車台らしきものは見当たらないと報告しましたが、これじゃあ嘘をついたことになるなと思い、早速早岐駅へ行きました。
しかし、1番ホームから見渡す限りやはりありません。
右手奥の建物の陰かもしれないかと思い、駅を出て一周することにしました。
長崎方面の一番目の踏切を渡り駅裏へ回りましたが、3、4階建ての建物や民家、生け垣などで構内がよく見えません。
中ほどまで来たときレンガ造りの給水塔らしきものが見え、その近辺で地面を穿つような工事をしていましたが、それが転車台かどうかは分かりませんでした。
結局有田方面の踏切を渡り早岐駅に帰ってきましたが、収穫無しでした。
やっぱり無いのかなあと1番ホームから再度観ると、転車台の写真でよく見かける真ん中あたりにある鉄のアームのようなものを発見することができました。
1番ホームから2、3番ホーム越しに見ていることと、高い位置からではないので、それが果たして転車台かどうかは確信が持てませんでしたが(円形が確認できなかった)、その鉄のアームは先ほどの模型の色と同じ薄い水色のものでした。
多分これがそうなのでしょう。
背景に似たような彩りの建物があり、前回は無いという先入観から見えなかったんだった思います。
模型では1/3くらいの円形の車庫(梅小路機関区にあるあの車庫のようなもの)に6面入り口があり、その両側にも3本づつレールが敷かれ、待機する機関車、転車を待つ機関車が数多くあったことが偲ばれましたが、今はそこに続く線路は無いようです。
以上あやふやな報告となりましたが、ご容赦下さい。
なお、先ほどの模型の展示されているテーブルの上には佐世保市立図書館でコピーされた、蒸汽機関車華やかなりしころの早岐駅の様子が窺える写真や線路配線図の資料が置かれてあり、一通り目を通しました。

TOさんからいただいたコメントを見て、何気なく国土画像情報カラー空中写真の1974年佐世保を見てみました。・・・・・・?。転車台、どこ?よくわからないんです。かすかにそれらしいようなものはあるんですが、どうも怪しい。
そんなわけで、今度は国土変遷アーカイブの空中写真の1947年早岐を見てみました。確かにある。扇形庫も。
次にyahoo地図で現在の早岐を。確かにある。だけど1947年の写真とは位置が微妙に違うような・・・。
ひょっとして、早岐の転車台って、一度撤去された後に再度設けられたとか?
そんなことがあるはずはないと思いつつも、1947年と1974年と現在の3枚の空中写真を見比べるとついついそう思ってしまいます。

一時期、RJ誌のバックナンバーを古本屋さんで精力的に買いあさったことがありました。まだバブル前で一冊100円から300円くらいだったと記憶しています。70年の11月号、買ってるかな…。 実家の本棚に無ければ捜し求めたいですが、今はいくらくらいになってるのかな…。

早岐駅の転車台、現存していて良かったですね。
佐世保駅の方のお話だと間もなく終焉を迎えるのでしょうか…。
以前も(54番目、ちょうど一年前ですね)少しコメントさせていただいたのですが、早岐駅の転車台は無煙化後に煉瓦製の扇形庫(12番線規模?)が取り壊されて長崎寄りにディーゼルの検修庫が新設された関係で、配線改良により少し佐世保寄りに移設されたようです。
それにしても早岐駅の雰囲気は良いですね。
まだまだ国鉄を感じさせてくれる駅なんでしょうね。

それと、今日は鉄道記念日ですね。鉄道が好きになってから約40年…。
グラス片手に少し回想してみます……

も一度、早岐へ行ってみようと思います。

仰せのとおり、12、3線レンガ造りの扇状の模型でした。

先日の「中央公論」に夜汽車(八代亜紀)及び砂の器の記事が掲載されていました。
ぜひご購読して戴きたいと思います。

二週続けての「早岐」はしんどい(広島弁:たいへんだ。疲れる。の意味。)ので、伊万里駅に来てみました。
なななんと、ディーゼル機関車に牽かれた寝台が・・・・・・、と思いきや、高速軌道試験車でした。

でも、MR(松浦鉄道の略。JRに対抗してのものらしい。)に高速・・・が必要かしら?と疑問が湧いたところです。

鉄の方々が5、6人群がり写真を撮っておられました。(準鉄の私は、そっと素知らぬ顔で、携帯で話す演技をしながら、結局、撮りました。)
ディーゼル機関車は、DE101209
「熊」でした。
高速軌道試験車は、
マヤ34ー2009
どこに行くのでしょうか。

E10さん、すみません、以前のことをすっかり忘れていました。早岐の転車台の移設についてはすでにE10さんからコメントをいただいていましたね、大変失礼いたしました。
E10さんとグラス・・・・・・。いえ、何でもありません。

TOさん、お疲れさまです。
素知らぬ顔でこっそり撮影、ナンバーまでしっかりチェック、いやいや、「準」は不要かと思いますが。

最速新幹線「みずほ」に決定。のニュースがありました。もちろん、九州新幹線のことです。
「みずほ」「さくら」とかつての優等列車名を獲得した「JR九州」なかなかやりますね。
日本らしい名前の復活で心和みます。
但し、どちらも乗ったことはありません。(かつての寝台列車の頃)
「(リレー)つばめ」は残るんでしょうか?迫力ある列車です。

もう一丁!九州新幹線ねたです。
やはり、新鳥栖駅が在来線上に出来きます。
ついこの前通過した時、ホームの工事をしていましたので間違いありません。

さくらに続きみずほも復活ですね(若干異論もあるようですが)。
つばめは九州内列車として残るようです。
鳥栖には昔数か月間出張していたことがあります。鹿児島線にはたくさん乗りましたが長崎線には結局乗れずじまいでした。

鹿児島線?
長崎線?
私は、
鹿児島本線
長崎本線
なのですけど・・・・。
「準鉄」のこだわりでした。

TOさん、失礼いたしました。
今後注意いたします(汗)。
そのこだわりは「正鉄」だと思いますが。

呉駅、懐かしいです。私が物心ついたときには既に呉線での貨物輸送は廃止されていました。1990年代後半、列車が広方面から呉駅に近づくと、幸町の海上自衛隊呉教育隊の敷地に沿ってかつての海軍工廠引込線跡と思われる深く草むした細長い用地が現れました。この用地は、界川に面する地点で灰色の両開き扉で閉ざされており、そのまま呉線の線路すぐ南に平行する錆びついた橋梁に繋がっていました。呉線の線路に平行して界川を渡るとすぐに界川踏切があり、呉線と引込線の複線となっていました。引込線は錆びており、既に使用停止となっている模様でした。呉港に向かう道路をやはり複線でオーバークロスすると、引込線はすぐにかつて呉港方面に向かっていたと思われる側線を分岐していました(この側線は大きく南にカーブしたところで途切れ、その先は草に埋もれていました)。その分岐の先で引込線は貨物ヤードの線路を何本も分岐し、呉駅3番線とはX字の渡り線で相互に接続していました。再外側の側線からはバブコック日立呉工場への引込線があったはずですが、既にその辺りは深く草むしており、見えなくなっていました。3番線の南数線の線路は錆びつきながらも架線も含め残存していました。その辺りには呉駅ホームに向けて広告看板が何枚も立ち並んでいました。それより南はかなり草が多く、どこまでレールが残っていたのかはっきりしませんでした。ただ、貨物ヤード南端のバブコック日立呉工場との敷地の境目付近に崩れかかった貨物用上屋と錆びついたコンテナが数個あるのがはるか遠くに見えました。駅西側で錆びた線路群のほとんどは3番線に集束していました。駅に西端市の用地はJRバスの車庫として利用されていました。他方、1番線西端の呉市交通局ビルとの境目の側線は、既に撤去され存在しませんでしたが、1番線東端の工事用車両車庫につながる1線の留置線は残存していました。2000年頃に呉駅貨物ヤード跡地の再開発が行われ、側線群は駅西側の2・3番線からの引上線1線を残してすべて撤去され、駅は2面3線の単純な配線となり、いまではかつての面影はほとんどありません。海軍工廠へ続く引込線も撤去されていますが、呉港に続く道路をオーバークロスする部分は歩道橋として再利用されています。界川踏切は引込線部分が埋められ、単線の踏切となっています。界川を渡る引込線の橋梁とその東に続く自衛隊用地との境にある例の灰色扉は残されていますが、橋梁上のレールは撤去されています。この橋梁も撤去されるのは時間の問題かもしれません。いずれにせよ、私は呉駅の貨物ヤード、引込線現役時代は世代的に知りませんが、草むした用地に広がる錆びた線路群、二河川に沿って南に歩いた時に見えた崩れかけた貨物上屋や駅ホームからはるかに南に離れたバブコック日立呉工場との境界に近い辺りに草から顔を出した第3種車止め数個とそこから続き、ほどなく草にかくれてわからなくなっていた錆びた線路は、何とも郷愁をかきたてる趣深いものでした。私の線路への興味の原点ともなった風景でした。以上、長文失礼しました。

ようこそ!
「つちろん」さん。
呉駅の様子、見事なまでに正確無比に描かれていると思います。
私は、何度もこの「懐かしい駅〜」で呉駅のことを書いているのでこれ以上は書けませんが、呉駅の3番ホームにはかつて「長崎・佐世保」行の急行「出島」が10両編成で出発を今か今かと待っていた光景を思い出します。
今でも3番ホームには、急行「出島」のプレートがあるかも知れません。
私の同級生が夏休み近くになると五島列島に帰るのに、長崎まで「急行出島で帰るんじゃ。」と言っていたのを思い出します。

こんばんは。呉線の広駅のひとつ東に仁方駅があります。10年以上前に、市販の地図(たしか昭文社)で、この駅から南東に分岐してラケット状のループを呈する側線が描かれていました。不思議に思い現地を訪れたことがあります。仁方駅は相対式2面2線のホームをもつ駅なのですが、確かに、駅舎側のホームに面する線路の西端部分から南東に分岐する側線が1線ありました。この線路は駅舎脇でほどなく車止めが設置され途切れていて、ちょうど保線用車両の留置線のように見えました。かつての地図と比較すると、まさにこの側線が問題のラケット状ループ線(?)の起点かなと思われました。最近、仁方駅を再訪する機会があったのですが、現在はその側線すら撤去されており、痕跡はまったくありませんでした。ウェブで公開されている国土交通省航空写真でも、何となくそれらしきループ線(?)が確認できます。当地はかつて国鉄仁堀航路がありましたが、ループ線は特に仁方港に接しているわけでもなく、またヤスリ生産も盛んですが特に工場引込線というわけでもないように見えます。まさか、広駅の貨物列車や広駅に接続していた米軍弾薬庫専用線からの貨物列車がここでUターンするための設備ではないでしょう。謎ですが、地図にまで記載されていたということはそれなりの役割をもつ側線だった可能性があります。鉄道配線に詳しい皆さん、どう思われますでしょうか。

f54560zgさん、syさん、EH10さん他みなさんを差し置いて、私が「ようこそ」(つちろんさん)なんて僭越な発言をし、済みません。

呉線、呉駅を語られるつちろんさんにも偉そうに「ようこそ」なんて申し訳ありませんでした。

さて、仁方駅の引き込み線のことですが、広弾薬庫に繋がっていなかったことは確かです。
たぶん、鋳物(鑢:やすり)工場への引き込み線だったはずです。

改めまして(笑)、つちろんさん、コメントありがとうございます。
そしてTOさん、フォローありがとうございます。
以前TOさんからご紹介いただいた安芸阿賀→呉の前面展望動画を見ながらつちろんさんのコメントを拝見し、うん、うんと頷いておりました。
残念ながら私は呉線方面には足を運んだことがなく、昔の状況は知りません。
ただ、TOさん、つちろんさんのように「特別な駅」をお持ちであることはうらやましく感じます。私にとっての「特別な駅」はどこかな?

f56540zgさん真の信のフォローありがとうございました。

やはり、呉(九嶺)じゃあ、広じゃあ広島は日本の先進国と自負してしまう馬鹿が多いところなのでお許し下さい。

前置き長くなりましたが、今頃になって御礼申し上げるのは本当に恐縮なのですが、呉駅の配線図有難うございました。

うっ・・・・、TOさん、厳しい追及ですね。
忘れているわけではありませんで、もう少々お待ちください(汗)。だけど、呉ではなくて広だったような・・・。

TOさん、f54560zgさん、フォローのコメントをありがとうございます。列車ももちろん好きですが、やはり「線路」には何物にも代えがたいロマンがあると思います。呉、広島周辺地区はもとより、全国各地の「線路」の興味深い話題を今後とも楽しみにしております。

f54560zgさん申し訳ありませんでした。
呉駅の構内配線図を貼り付けて戴いたのはsyさんでした。(1年くらい前になりますが、「旧呉海軍工廠引込線レポート」の記事を貼り付けて戴いたことです。)
あの時、私のリクエストに答えて戴いたのに、一言御礼申し上げなかったことを思い起こし、あらためて御礼の意を表したのが「今頃になって・・・・」の文面になったのです。携帯サイトで見ると、すぐ上のコメントがf54560zgさんのコメントでしたので、よく確かめもせずにf54560zgさん宛の発信になった次第です。
syさんに対しても失礼な書き込みになってしまい、申し訳ありませんでした。ご容赦下さい。
f54560zgさんが私からの「催促」に思われ、また、「呉駅じゃなく・・・・」と首を傾げられたのも当然かと思います。

f54560zgさん、syさんにお詫び申し上げるとともに、あらためてsyさんに1年前の「旧呉海軍工廠引込線レポート」について有難うございましたと一言御礼申し上げます。

それから、f54560zgさん「広駅」の配線図のことは余興的なものですので、本当に暇な時に、気持ちが向いた時、軽く考えて戴ければと思っています。なんか、プレッシャーをかけたみたいで、恐縮しています。

以上、本日は反省文になりましたが、次回は(あたりまえのことですが)どこかの駅・路線のことを書かせて戴きたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。

つちろんさん、線路>列車の思考に大変共感いたします(笑)。昔の写真等はもうあまり在庫がないのですが、これからもよろしくお願いします。
TOさん、東小倉のときの仕返しかと(笑)。
SYさんには私からも改めてお礼申し上げるとともに、TOさんにはもうちょっとお待ちくださいね。

こんばんは。山陽本線徳山駅から下関方面に出発して富田川を渡る直前までにある線路群は貨物ヤードか何かでしょうか?今でも現役で使用されているのですか。ご存知のかたがおられましたらご教示ください。

つちろんさん、こんにちは。

ご指摘の場所の線路群は、徳山駅寄りが旧徳山機関区で、線路の上をを横断している道路橋の新南陽駅寄りが旧徳山客貨車区でした。JR化以後の徳山駅の拠点としての地位が低くなっているようですが、旧客貨車区はJR貨物の貨車検修施設として使われているのか、ご存知の方がおられれば幸いです。この線路群は徳山、新南陽両駅と本線とは別の側線で繋がっており、どちらの駅からも出入りできる配線になっています。西浜松ー高塚間と同様ですね。

コスモスさん、貴重な情報をありがとうございました。

【呉線】
呉線への私の訪問は意外なかたちで訪れました。
それは、もう15年程前の残暑の頃でした…。
機関区やSLに熱を上げていた30年以上前、作家の吉村昭さんの「戦艦武蔵」「深海の使者」「高熱隧道」などを読みあさっていました。
その作品群の中に強く印象的な「陸奥爆沈」と言う作品があり、その中に柱島、由宇、江田島などの地名がありました。
その昔、由宇の港から柱島への航路があり、その名残を求めての、何十年間あたためていた末の広島行きでした。
早朝に在来線でこちらを発ち、瀬野八を通過して昼過ぎに広島入り、原爆ドームを訪ね午後から由宇の港へ。
近場の一軒宿の温泉地に宿をとり、翌朝の列車に乗り込みました。
由宇始発の呉線行き(おそらく広行き?)で、呉駅で下車、江田島を見学して呉に戻り三原へと出ました。
つちろんさんのおっしゃる当時の呉駅の情景が浮かんできて、脳裏に再来してきます…。
時はうつろい、二年前の桜の季節に、想い出の有った八幡浜を訪問してからの帰路に、当時まだ残っていた民間の仁堀航路で仁方、広、呉を訪問しました。
フェリーが着岸した港も一新されており、仁方にそのような引込線が有ったとは思いもよらず(呉、広に関しては以前にコメントさせていただいた通りです)呉へ向かう電車の中で、以前 TOさんのおっしゃるトンネルの情景を体感しながらの呉線訪問でした。
呉駅同様、私の名前も電化されて、自分自身も動力近代化を急がねばならない時期なのかもしれません…。
いつもながら様々な想いを感じさせていただける TOさんや皆さんに感謝です。

コスモスさん、フォロー大変ありがとうございます。
私は姫路以西の在来山陽線には乗車したことがありませんので、手も足も出ません(汗)。
E10さんやTOさんやつちろんさんのように呉線に関しての思い出を語ることができないのが残念です。
ところで以前のTOさんのコメントで、E10さんはすでに「電化」されていましたよね。

EH10さん今晩は。
ジグソーパズルのピースのような破片をばらまくかも知れません。
思想的な領域に入ってしまうかも知れません。
偏見的な歴史観に浸ってしまうかも知れません。その時はf54560zgさん構わず警告を発して下さい。削除して下さい。
まず、「由宇」行き。確かに呉線にありました。その列車に乗ったこともあります。
広発だったか、竹原(呉ー三原の中間:三原寄り)発です。「由宇」なんて広島県では聞いたこともないし行ったこともないのですが、広島まで行くのに何の支障もないので迷わず乗っています。
岩国の先と知った(確信した)のはつい先程です。
次に、「柱島」。
連合艦隊停泊地とは知っていましたが、どの辺かさっぱりわかりませんでした。由宇の辺りだったんですね。
中学校の頃中間試験・期末試験が終了した日に体育館で映写会が恒例としてあり、「真珠湾」や「ミッドウェー」の大東亜戦争物があり、字幕に「呉」とか「柱島」とか出ていました。それを見てわくわくと気分が高揚していました。
「江田島」。
私が申し上げるまでもなく世界三大海軍兵学校の一つです。
ここには最低4回行っています。
1回は術科学校との試合。1回は対戦相手が思い出せませんが、とにかく試合です。
素晴らしい芝生です。
あと2回は旧海軍兵学校の見学です。
自衛隊の方が、案内して下さいます。
山本五十六も東郷平八郎(たぶん)もここ出身です。

ここでやっと懐かしい「駅」 に関することとなります。山本五十六の愛人?千代が呉駅まで列車で来て、彼女をおぶってつれて行ったことが何かに書いてあったことを思い出しました。

以上、中途半端な文面になりましたが、是非「呉」「呉線」周辺の顕彰をして戴きたいと思います。

TOさん、努力します!

こんな時は、なんと言う言葉で表せばいいのでしょうか…、SYさんにお教えいただきたい気持ちです…。
ここ数週間、愛娘のような愛犬の看病と介護に奔走していました。
15歳と9ヶ月、いつも家族の中心にいた存在でした。
犬の10戒(犬と私の10の約束)と言う言葉があります。彼女との約束…、果たせたのかな……

TOさん、「先日の「中央公論」に夜汽車(八代亜紀)及び砂の器の記事」購読しましたよ。
「ディーゼル機関車は、DE101209」 20数年前からの九州行きで何度も接してきた思い出深い車両です。

f54560zgさん、「私にとっての「特別な駅」はどこかな?」 もしや上田駅ではありませんか? ブログ内での栄光のトップナンバーなのですが、見当違いなら申し訳ありません。

今回で200回目までも来ました。たぶん次位は五条の20回ですので、皆さんの積み重ねの賜物です。
いつも梅小路に居る D51200や宇都宮の項での200系もかなり印象的なのですが、私にとって200と言えば鷲別機関区の DF200でして、鷲別機関区と DF200に関してはいずれお話出来ればと思います。

f54560zgさん、誌面をお借りさせていただいて申し訳ありません。

 可成りつらいお話ですね。
 人は、恋人であれ、伴侶であれ、可愛がったペットであれ、また情熱や精力を注いだ領域や事物であれ、『愛する対象』が傷ついたり、消えてしまうことを極度に恐れます。まさに消えようとしたり、傷ついていく人や対象を、どうにかせねばならないという衝動に動かされ、それを適切な表現では切り落とせないものだと正直思っています。孤島が瞬間々々四方から幾多の波を受けるような感じで、それぞれの愛着の程度や感受性によって、表現が変わって来るものと思っております。極端になれば、波動の大きさや方向性の無さから、生きた心地すら失い、無感情になって仕舞う人さえいると言います。
 ただ、「彼女との約束…、果たせたのかな……」という表現に、『対象の喪失』に対する無意識の『修復の衝動』が窺えて、きっと“E10”さんは日々大事に『愛娘』に接しておられたんだと、聊か安堵しております。…きっと充分に果たしておられたと思います。人間に『修復の衝動』が備わっているが故、人はいろいろな対象や事象を大事にしているのです。
 次いで、鷲別区のお話は是非とも賜りたく思います。思い出というものは、過去への整理と、それ故心の土壌への肥やしにもなると思えます。
 以上表現になっていないようで、才なく申し訳ないところです。

SYさん、ありがとうございます。 f54560zgさんのブログを通じていただいた SYさんのお言葉に自然と号泣しておりました。
失われた鉄路はもう戻って来ないですが、「線路は続くよどこまでも」の言葉通り、「セナ」と名付けた彼女との想い出はどこまでも続いて行くのだと感じております。
暖かいお言葉、ほんとにありがとうございます。

TOさん、急行「出島」が長大編成を連ねて呉駅から長駆、長崎駅に向けて発車する情景が目に浮かんできます。
初めて呉線や江田島を訪れた時に気が付いたことがありました。
幼い頃から毎日見ていた山陽本線の線路上を、山本五十六などの歴史上の人物も、名も無き旅人達と同じ空間を列車に揺られながら移動していたのだと…。
昭和40年代の夏の夜、寝ている部屋の窓を開けると、少し向こうにその山陽本線が見えていました。時刻表から得た近くの停車駅から割り出したおおよその時刻と、時刻表末尾の列車編成表から見た車両の車内からこぼれる明かりの窓割構成で列車名を捜し当てていました…。
そんな事が昭和48年頃まで続いていましたので、TOさんが以前にお話されていたように、TOさんが乗車されていた急行「音戸」を当時の私が見ていたかもしれません。「音戸」が通過するまでは‥と、親の眼を盗んで深夜まで頑張って起きていた覚えがあります。
また、SYさんがよく急行「鷲羽」に乗車されていたとお聞きしています。英賀保駅から夢前川の鉄橋を過ぎ、直線区間から少しだけカントを伴った緩やかな左カーブを過ぎた辺りから、網干駅手前の大津茂川の鉄橋までの踏切が三つ連続していた辺りの沿線で、急行「鷲羽」の車窓から SYさんが一瞬見かけられた少年がもしいたら、それは幼い頃の私の姿だったかもしれません‥‥。

出し惜しみしていた訳ではありませんが、網干・英賀保付近は昼間に通ったことが何回かあります。急行「とも」(三原ー新大阪)です。
「とも」は、福山の「とも(漢字に変換できませんでした)の浦」から採った名称です。
当時(1970年の今日は〜:三波春夫)新幹線の西端が新大阪で、特急列車・ブルートレイ、急行列車が目白押しでした。
L特急「しおじ」「はと」、「かもめ(別称:カラス)」、急行「鷲羽」「玄海」「長門」「銀杏」などです。
当時、三原駅の西踏切はほとんど開かずの踏切でした。
やはり、地平面のホームがいいですね。0番ホームもありました。
浜松も姫路も、地平線面の時は夢がありました。
姫路の立ち食いうどん、本当においしかったです。
最後に、ちょっと「振り(釣り)」ますが、「網干」と「大垣」、なんか似た雰囲気があると思うのですが・・・・・。

 木々が黄や紅に染めつつある、僅かばかりの小春日和、より日の当たる山陽路のお話、少なからず心温まります。
 兵庫県内播磨地区には、加古川・市川・夢前川という三大河川が有り、築堤を駆けるときには聊かなりとも興奮を覚えました。皆と違い、自身は市川なのですが…新幹線の保守施設、渡河、そして扇形庫が望める姫路操車場…踏切を横断して姫路駅へと。一度だけ飾磨港へ向かう播但線に乗った記憶があります、小豆島へと行くためでした。 
 姫路駅の立ち食いうどん、昼間の鷲羽が消え、新快速と普通の連絡の合間に、機会のある度に喉を通過させました、まあ若かった為に、間と、卑しくなりやすい消化器官がもたなかったのでしょう。
 またネットを始めて航空写真を落とし得ることを学び、英賀保駅(多分!)に三角線があったらしい事を知りました…その設置理由は不詳です。
 網干と大垣駅の雰囲気については、ともに平地で明るく、電車区(旧称)を有して、普通列車の接続の為時間を潰さねばならない点はそういう印象を持ち得ましょう。ただ大垣の場合は関ヶ原を越えるという固定感が自身に災いしていて…。

 西播地区には赤穂に注ぐ千種川がありました。すいません。
 枕上で、「夢を見る前に」、「いろいろ雑多な」(=千種)ことを思い浮かべ思い起こしました。…就寝前ですら雑念が多いこと!
 県下四大河川に改めさせて頂きます。

加古川。
大阪まで(三原以東)の中で一番長い鉄橋ではないでしょうか。
それ以外の3つの川は、認識したことがなかったです。
鉄橋に差し掛かると「一級河川○○川」と、当時の建設省の看板があり、旅情を駆り立ててくれました。
「夢前川」。素敵な名前ですね。銘板はあるのでしょうか。

E10さん、私も小さい頃、飼っていた犬を亡くして本当に悲しい思いをしましたのでお気持ちよくわかります。私の場合、以降生き物を飼うのはやめることにしました。同じような悲しみを味わうのには耐えられなかったものですから。

f54560zgさん、ありがとうございます。
実は私も30年ほど前に f54560zgさんと同じ思いをしていました。
それから15年程経ったある日、「実家のほうで番犬が欲しい‥」「この子犬を誰かにもらってもらえなければ保健所に持って行くことになる‥」 そんな偶然が重なりそれでその子犬を実家に連れていくとそこには既に先客がおり‥。 ではうちで一緒に暮らさないといけないのか‥みたいなそんな事情で、まだ生まれて数週間だった「セナ」は我が家にやって来ました。
若桜駅構内で展示運転されている C12167のキャブ内の機関助手席に乗って構内を往復したり、近年復活運転した明延鉱山の一円電車には何回も乗ったりと、鉄路とは縁のある「犬鉄子」みたいな愛娘でした。
f54560zgさん、お気遣いほんとにありがとうございます。

【1979・8・21】
約一年前の2009/11/10のf54560zgさんの「1979年8月21日、東京から京都まで、ナハネ20139、4号車3番上段です。東京発22:45、京都着7:17ですので…」の記述から、f54560zgさんが寝台急行「銀河」に乗り込んで東京駅を発たれたその日の、おそらくf54560zgさんが北近畿などを訪問のための旅仕度をされている頃、私は北海道の渡島半島の日本海側にある、今は廃線となった瀬棚線の終着駅だった瀬棚駅(訪問時はまだ転車台が在りましたが、LUNさんのサイトではおそらく転車台が埋められた跡の貴重な風景が見られます)を後にしていました…。

当時、一世を風靡していたキネマ旬報の蒸気機関車誌に一時期「シリーズ終着駅」という企画があり、昭和49年(74年)の同誌のNo.29号に瀬棚駅が紹介されていました。
まだ中学生だった私は、紹介されていた瀬棚駅構内の風情と、記事を書かれた同誌編集者の長津徹さんの文章に強く感銘を受け、79年8月(昭和54年)の北海道の機関区と転車台巡りの締めくくりとして瀬棚駅を訪れていました。

上野の項でも触れましたが、当時ブルトレブームで憧れのブルートレインに乗ってみたくて、渡道のために青森を目指して大阪駅のホームで憧れのブルトレ「日本海」(北海道行きはもちろん周遊券でしたので、当時高校生の私には特急寝台の料金を考慮すれば周遊券だけで乗車出来る、同一区間を走る急行「きたぐに」の自由席が最善の選択でした)を待ち焦がれていたら、いつまで待っても乗車予定の「日本海3号」が入線してきません。
そこに「本日は東北地方の水害のため寝台特急日本海3号は運休となります」のアナウンス。
代替輸送として、新大阪から東京行き最終の「ひかり」に乗り、上野駅から臨時急行「十和田53号」に乗り換えれば翌日の昼頃には青森駅に到着出来るとのこと。(日本海3号の青森着は11時45分、十和田53号は12時15分着)
待ち時間に仲良くなった鷹ノ巣まで帰ると言う50代くらいのおじさんは「青森までなんか遠回りで出れんわ‥」と言って困惑されていました。初めての長旅のスタートに、見知らぬ他人とでも途中迄でも同行出来れば不安感も安らいだのでしたが…。(そんな予定外の出来事でしたので、帰路は「きたぐに」利用か東京回りにするかの予定を変更して、乗車出来ずに憧れが増していたブルトレ「日本海」になりました。)

その後、道内の機関区、転車台巡りを終え、8月21日の午前中に瀬棚駅から長万部行きの気動車で、三連泊もした瀬棚の町を後にして、長万部から青函区間特急料金乗り継ぎ割引利用のため、函館行き特急「北斗4号」に乗り込みました。
函館からの連絡船内で夕暮れを迎え青森駅に入港した連絡船からホームに降り立つと憧れのブルートレインが青森駅のホームに隊列を成していました。
当時の時刻表で検証してみますと、19時15分発の「ゆうづる6号」と19時20分発の「ゆうづる8号」に、乗車する19時23分発の「日本海4号」です。
青森駅を発車してから定刻通りに走っていたなら、f54560zgさんが乗車された「銀河」が東京駅を発車した頃、私の乗車していた「日本海4号」は秋田駅を過ぎて羽越本線に入っていて、しばらくしてから、TOさんのお好きな「砂の器」の舞台の亀田駅辺りを通過していたはずです。
それから「銀河」が沼津駅付近を通過していた深夜1時頃「日本海」は、あつみ温泉駅辺りを通過。さらに真夜中の浜松駅に到着した 2時46分頃は新津駅を発車した直後。そして f54560zgさんが「銀河」から下車された京都駅に到着の 7時17分頃「日本海4号」は北陸本線寺井駅の手前辺りだったでしょうか。
その後「日本海」は10時05分京都駅着ですので、f54560zgさんと私は、1979年8月22日の午前中に京都駅で約2時間48分差ですれ違っていたことになります。
私は旅の記録としての正確な年月日時の記録が極めて少なく、今回のような当時の足跡をたどれることは滅多にありません。
たまたま当時のアルバムに貼付け保管していた「日本海4号」の指定券から当時の日付が判明しました。
f54560zgさんの細かな記録から、いづれ過去の私の軌跡もたどってみようと思いますが、今回が最初で最後の f54560zgさんとのすれ違いになっていたのでしょうか‥‥。

実は、私も雑種ですが犬を飼っていたことがあります。
捨犬で、生まれたばかりでした。
姉が泣き乍ら母親に頼み込んで、やっとのことで許しを得てのことでしたが、餌をやったのはたった3日でした。後は、飼うのを反対していた母親が世話をしました。
それでも犬って、世話をしてくれる母親より親父の命令に従うものなんですね。
犬は朝6時と11時30分と午後5時のサイレンに狼の如く「ウォーーン、ウォオン、ウォーーーン」と遠吠えしていました。
蒸汽機関車に出くわしていたら、どんな行動をしていたんでしょうね。

E10さん、8/22の朝に京都に着き、8/23の朝に大阪から丹波1号で福知山線方面を目指すまでは京都・大阪界隈をウロウロしていましたので、ひょっとしたらどこかでお会いしていたかも?
あっちこっちいろいろ出歩いていると災害や事故に巻き込まれることもありますね。事前に結構細かく予定を組みますので対応におおわらわになります。

TOさん、犬って自分にとっての「ご主人様」を的確に見抜くらしいですね。うちの犬も仕事から帰ってきた親父の姿を見ると、耳を後ろに寝かせてこれでもかってくらい尻尾を振っていました。

福知山が出たところで、そろそろ本題の「(準)鉄」に戻っていいでしょうか。
福知山。
昭和56年の夏、大阪(新大阪かも知れません)始発の寝台急行「だいせん」に乗り、尼崎、福知山、城崎、香住、餘部(香住・餘部の順序が間違っているかもしれませんが)、鳥取、伯耆大山、米子、松江を経て出雲市までいきました。
更に、廃止寸前の大社線に乗り込み大社まで山陰を楽しみました。

勿論、定番の出雲大社、日ノ御碕灯台を巡りました。まさに「岬めぐり」状態でした。

記憶を紐解き、知っていることを綿々と述べて申し訳ありません。

何を言っているのか分からなくなりましたが、大社線のような所謂「盲腸線」年々少なくなっていきますね。
九州の「高千穂線」。乗ろう、乗ろうと思っていましたが、とうとう乗れないまま終わりそうです。
ということで、いつものごとく支離滅裂になりましたが、酔いが醒めたら下から見た餘部鉄橋、出雲市以西、今も健在の仙崎線の記憶を蘇らせてみたいと思います。

TOさんのお話に、ついつい釣られてしまいます。(大垣、網干に関してはいづれ…)
夜行だいせんには、確か昭和59年に乗車したと記憶しています。
ナハネ20の三段式B寝台でしたがナロネ改造の座席車ナハ21が連結されており、車内を見たらやはり元特急用の広々としたボックスシートで、こちらの車両に乗りたい気持ちでした。
福知山を過ぎて蕎麦で有名な夜久野辺りを走行中に、最後尾に連結されているナハネフ22の展望室から車内の明かりに照らされ去り行く深夜のレールをしばらく眺めていたのを思い出します。
翌朝、米子駅構内で急行さんべ用の20系客車をを目撃したりしながら雨上がりの出雲市駅で特急おきに乗り換え、その後、湯田温泉に泊まり翌日に念願のSLやまぐち号に乗車しました。
まだ初期の頃の青い12系客車時代でしたが、始発駅の小郡駅から発車の際に客車の引き出しが素晴らしくて全く車内に衝撃や振動が無く、C57-1の機関士さんの腕前に感嘆したのを覚えています。
津和野駅から再び特急おきで松江に戻り、松江温泉の老舗旅館に泊まり翌日一畑電鉄で出雲大社へ。そして TOさんと同じく日御碕燈台へ。
帰路は浜坂の項でお話した特急まつかぜでした。
この特急まつかぜの食堂車担当の日食米子のウェイトレスさんがアイドル並の端麗な顔立ちをしていたのと、車販の若い男性が当時人気アイドルグループのチェッカーズの髪型をしていたのを鮮烈に記憶しています。

早速の釣りに掛かって戴き、有り難うございます。
ここでまたまた、お詫び申し上げることがあります。
それは、先日「網干」「大垣」がさも似た駅と記述したことです。
単に、電車区という共通項目だけで、心底思ってもいなかったことを検証せず勢いで書いてしまったことです。
「網干」は、むしろ、同じ山陽本線の「上郡」の方が雰囲気が似ていたかなと改めて思うところです。

E10さん、松江の老舗館とは、もしかして「大橋旅館(館)」のことでしょうか。
松江駅を北に降り、橋を渡ったすぐのところの旅館だったと思います。
昭和52年11月、試合で島根大学に行った時2泊した旅館です。
懐かしいです。

福知山線、山陰本線なら豊岡あたりまでならついていけるかもしれません。ただ、車窓からの景色の記憶はほとんどなく(車窓から見るのは線路ばかり)、観光地巡りもほとんどなし(線路から100m以上離れない)ですが。
ナハネフ22から眺めはちょっとうらやましいですね。
ところでTOさん、広や呉の記事、スルーしないで下さいね。

TOさんの乗車されていた「急行とも」は好きな列車でした。
なぜならそれは幼少期の頃から早くにヘッドマークの文字が読めた数少ない優等列車だったからなのでしょう。
「つばめ」「はと」「しおじ」「うずしお」などもありましたが、如何せん「とも」のヘッドマークに比べ文字が小さく、巨大なヘッドマークの急行「とも」が当時の私には親しみを感じる列車でした。

姫路駅構内の立ち食いうどんですが、老舗の”まねき食品”(姫路は宇都宮に次いで二番目の駅弁販売駅らしいです)による創作そばで、その独特で希有なる食感は機会があれば是非とも食されることをオススメしたい一品です。今は姫路駅の高架化に伴い室内で食べる様になりましたが、地平時代の吹きさらしのカウンターでそばをすするのが絶品でした。

SYさんのお話の飾磨線(播但線)を利用されての小豆島行には驚愕いたしました。地元にいながらそのような利用の仕方が有ったのだと気付かされたしだいです。やはり朝夕二回しか走っていない超ローカル線だったのが、そのような発想に及ばなかったのでしょう。
また、SYさんの記述されている「扇形庫が望める姫路操車場…」に関しては、駅舎南側に在った姫路第二機関区なども含めていづれ T.Mさんシリーズが西進してくることを期待させていただきたいです。
そして、英賀保駅北側の三角線ですが、おそらく戦時中に姫路駅構内の転車台が爆撃されて使用不能になった時に備えてさずけられたようです。
終戦直後には休車の D52がその三角線に多数留置されていたみたいです。(キネマ旬報 蒸気機関車誌より)

網干駅に関しては専用線が南側の浜田港(網干港)へ5㌔以上も延びていていました(北沢産業専用線)その昔、網干駅構内の貨車で遊んだ記憶があります。
昭和40年代前半に網干電車区の開設時には新聞紙上で報じられ、網干駅西方の空中写真が掲げられていたのを見た覚えがあります。
時代は移り変わり今は鷹取工場の機能が移転し、稀にトワイライトカラーの客車が見られたりしてます。

大垣電車区は昼間に目の当たりにしたのは意外と遅く国鉄民営化後でしたが、以前から地元より山陽本線を経て東海道本線を東上する電車の最遠の地が大垣駅で、この大垣行にはなにか憧れめいたものがあり、大垣電車区を通った時は胸がときめいたのを覚えています。

TOさんご質問の松江しんじ湖温泉の老舗旅館ですが、TOさんが宿泊された「大橋旅館」より数軒西隣りの「皆美館」ですした(文豪、島崎藤村ゆかりの旅館などとは思いもよりませんでした) 当時、大阪梅田の阪急三番街に料理店(今は阪急グランドビル、東京の銀座にもあるみたいです)がありそちらに少しご縁があって利用しました。

f54560zgさんの「線路から100m以上離れない」は名言ですね。
たぶん操車場などを跨ぐ陸橋などのスロープの長さを迂回しても「線路から100m以上離れない」距離だと思いますので、経験者のみぞ知る実体験の言葉ですね。

それと、TOさんが呉線へと向かう線路の分岐器を私が手動転轍器で反位に動かしてしまったようですみません。
すでに f54560zgさんが電気転轍器で分岐器を定位にもどされたようです。
お手数をおかけいたしました。

はい。
分かりました。
でも、「呉」駅・「広」駅はさすがに種(漢文のレ点)がつきました。
つちろんさんにバトンタッチしましょう。

E10さん。幾らでも分岐点、反対に倒して下さい。
あっちこっち行きたいです。

E10さん。
姫路は、日本で最初の駅弁ではなかったでしょうか?
いや、やはり山陽本線初でしたっけ。
いずれにしても、本当に姫路駅の「立ち食いうどん」おいしかったです。(以前にも書いてしつこくて申し訳ありません。)三原駅も、昔昔はおいしかったです。
今は、広島駅のが一番おいしいです。

ところで、また、姫路駅に戻りますが、昭和58、59年に長崎発の寝台特急「さくら」が脱線したことを覚えていらっしゃるでしょうか?
丁度その時、「あさかぜ」で東京に出張に行こうとしていて、乗りそびれ翌日の新幹線を利用した記憶が蘇りました。

姫路駅については、もう少し書きたいことがありますが、本日はこのあたりでお終いにします。
それでは、みなさんおやすみなさい。

映画のワンシーンのような歴史の証言者である TOさんのお話ですね。(駅弁に関しては後ほど…)
西明石駅のブルトレ脱線事故(正確には寝台特急富士。詳しくは、西明石駅列車脱線事故 - Wikipedia等で)は強い印象として記憶しています。
ブルートレインの上り列車が西明石駅に速度超過のままでポイントに進入し、先頭の機関車自体はその重みで脱線を免れたようですが、軽量客車の寝台車両は左右の衝撃に耐え切れず、西明石駅ホームの西端部分に激突した事故であったと記憶しています。
不幸中の幸いとして、客車の損傷部分が通路側で被害が軽減されたと報じられたことを覚えています。
この事故が遠因で、当時、乗務員区になっていた栄光の姫路第二機関区が姫路第一機関区に統合消滅してしまったように記憶しています。

私自身にとって、この昭和59年は同年代の知人を相次いで亡くし、失意の年でした。
いたたまれない気持ちの整理がなかなか着かず、その後、翌年からの全国機関区行脚への道標となったのかもしれません。
知人への慰問の道中、それまで図り知れなかった列車の旅人達の心情に、自分自身がその身を置くことにより、日々数え切れない列車の乗客達の姿が千差万別であり、様々な姿で目的地へと運ばれていくのだと、初めて鉄道趣味の視点を離れて気付かされたのでした…。

昭和59年でしたか。
西明石駅だったのですね。記憶、あやふやでした。

いつもいつも情感こもったコメントありがとうございます。
素早い展開にタイミングを逸してばかりです(汗)。
一読者に徹しています(笑)。

f54560zgさん。
一読者から早く目覚めて下さい。

ところで、最近、いやもっと前からですが、全国全駅の線路配線図が掲載されている本が雑誌で紹介されていて、書店で売られています。
今日初めて、手に取ってパラパラとめくってみました。
購入には至りませんでした。

鉄道趣味に駅弁は一般的な認知度も相まって旅先での楽しみの要素ですね。
駅弁の思い出は数々ありますが、有名駅弁や話題の駅弁よりも意外とその時の満足感を満たしてくれた駅弁が印象に残っているものです。
ある時の北陸夜行から乗り換え、直江津か長岡辺りへ向かっていた朝の特急列車の車内でのことしでた。やはりこの先の行程を考えると「腹が減っては戦が出来ぬ」と、早朝より車内販売のワゴンから幕ノ内弁当を買い求めたことがありました。 朝食は少なめが常態化していた私には大量の食料でしたが、味も美味しく何故かその時は完食でした。それに幕ノ内弁当にしては意外と安価で(昭和60年代頃で500円程でしたか?)なにか得した気分にもなり、並み居る駅弁群を押し退けて一番の駅弁だったと今の私の中では位置付けられています。
やはり駅弁の醍醐味は、改札口の内側か走行中の車内で買い求めるのが旅情をさらに沸き立ててくれますね。
宇都宮駅や姫路駅等の駅弁論争には諸説ありますが、私の年代の鉄道入門書には宇都宮駅の竹皮に包んだ”おにぎり弁当”が駅弁の発祥と記してあり、その影響からか夜行列車で上京し、東北本線の列車に揺られながら宇都宮駅に着き、その場でその歴史ある”おにぎり弁当”を車内から窓越しに(昔の不二家のジュースのネクターのCMを思い出しますね)購入して、黒磯 白河 郡山 福島 等の駅で機関区風景を眺めながらの旅路に夢を抱いていました。

TOさんのおっしゃる配線図の趣味誌は私も以前から書店で目にしていました。二、三十年前なら垂涎の資料だったに違いありません。
ある時期の私は、高価な趣味誌のわすがなページにも、丸や扇形の印しが記された配線図を見つけ出せれば有無を言わせず購入していました。
しかしながら、今は迷ってしまいます。
何故ならそれは、それらの趣味誌に”懐かしさ”を感じ得ないからなのでしょう。
やはり昔のブルートレインを感じる今の北斗星と無機質なカシオペアとの違い以上の感覚とでも言うのでしょうか…。

そうなんです。
懐かしさを感じないんです。
紙質も良く、正確に、はっきりくっきり。ISOの世界なら、まさしく高品質の製品でしょうね。
手には取れども、購入できず。です。
とは言っても、呉線のだったら購入したと思います。
一貫性のない私ですが、例外として勘弁して下さい。

駅弁といえば高崎のとりめしです。
ところで「全国全駅の線路配線図が掲載されている本」って、具体的には何という本ですか?

調べておきます。
といっても、書店で筆記用具を取り出して・・・・・・・・。という訳にもいかないし・・・・・・。
以前、週刊ポストだったか何かで宣伝されていてそれと同じものか否かは分かりません。
購買意欲はあまりありませんが、これを機会に購入してみます。
(いつもながら、首尾一貫性のない私です。)

購入しました。
講談社でした。

詳細は次回、ご報告いたします。

意外な発見がありました。
「寿」駅。以前は「墓」に似た字だったそうです。
また、「大月」駅は以前は「大槻」駅だったということ。です。
また、大月駅は一度ホームに降り立ったことがあるのですが、その時気付きませんでしたが、そこから富士急?が分岐しているのですね。

最後に、肝心の図書名、次回にさせて下さい。

先ほどの「墓」は「蟇」でした。
本の名称、すみません。今、高級クラブに居ますので、後ほどお知らせします。

購入した本は、
【図説】日本の鉄道
中部ライン
全線・全駅・全配線
第3巻 八王子駅ー松本 エリア
配線図で読み解く鉄道「現在・過去・未来」
鉄道アナリスト川島令三「編著」
講談社
96ページ
933円(税別)

です。

中部ラインのところが、日本全国ですので、東海道ラインとか九州ラインとかになるのでしょう。東海道ラインは全12巻発売中で、今回購入の中部ラインも同じく12巻発売予定となっています。

【訂正】
前回富士急のところで、蟇としましたが、もう一度読み直してみると「暮」という字でした。「暮地(くれち)駅」が正です。
すみません。訂正いたします。
解説にあるとおり、確かに「墓地」と読まれてしまうことも多かったと思います。

TOさん、ありがとうございます。中央線関係だけで12巻ですか?日本全国になったら相当な数になりますね。まずは書店でチラ見してきましょう。

TOさん、それがあったんです。「盛⇔盛岡」間の列車が。
それも急行列車ですよ。

地域と話題が異なりますので、仁方・広配線図へのコメントから、ひとやすみ2に移動してきました。

TOさんの『有り得た区間として「盛ー盛岡」(「もりーもりおか」でなく、「さかりーもりおか」)』の区間を走っていたのが、急行「さかり」です。
鷲別機関区訪問時の北海道行きの資料検討をしていたら、当時同帯していた時刻表の東北本線の頁に偶然見つけました。
いつの時刻表かと申しますと、私の話によく出てくる79年8月(S54)の号です。
当時、各地に多く見られた多層建ての気動車急行で、根幹の列車は仙台発田沢湖線経由の秋田行き急行「たざわ」です。
これも私の話によく出てくる昭和46年5月号の大型時刻表の表紙が急行「たざわ」で、またこれも何かの奇遇な縁なのでしょうか。
この多層建て急行を説明するのに文才のない私では、あと二千文字くらいはかかりそうですので割愛させていただきますが、近書では新潮社の薄本の「日本鉄道旅行歴史地図帳」のシリーズ2号東北篇に詳しく記載されています。
大型書店ならバックナンバーとして揃えてあると思いますのでご覧くか、70年代くらいの時刻表や、別に列車名とかでネット検索してみてください。
ただ、特記として、当時の時刻表で見ると田沢湖線は電化工事中で、トンネルの拡幅工事でもしていたのでしょうか、一部バス代行となっており、急行「さかり」を見つけたくらいに驚きました。
それと別の話になりますが、急行「五葉」と言う列車があって、こちは盛岡発盛岡行きです
以前は、あちらこちらに循環列車があったと思いますが、出発時の駅や車内の案内放送はどんな感じだったのでしょうね。

急行「さかり」の発掘に、座布団一枚くらいはいただけそうでしょうか…。

いやーあ。驚きました。と同時に多層建急行の出現に、喜びが湧き出て興奮しています。多層建急行の話題になることを密かに期待しています。(例えば、名前は忘れましたが、下関で別れて長門市?で再び合流していた列車とか・・・・・・。)

ああ、忘れるところでした。
勿論、座布団10枚です。

追伸
東北地方の急行といえば、何故か「べにばな」を思い出します。
時刻表を眺めていただけのことですが・・・・・・。

EH10さんへ

偉そうに座布団10枚なんて言ってごめんなさい。
「五葉」?かどうか定かではありませんが、循環急行微かに記憶があります。
循環といえば、「真っ先」に思い浮かべるのは何故か「大阪環状線」です。何時も脈絡がありませんが、よーく読み込んで戴ければ地下水で繋がっていることにお気付きと思います。

こんな私は、会社では、ほとんど(一分の人を除いて)の人が理解に苦しむようです。

もうひとつ、脈絡無しで申し訳ありませんが、以前糸崎に行かれたお話しまだ完全にお聞きしていないような気がするのですが・・・・。

当時、多層建て急行や循環列車は f54560zgさんもかなり利用されたのではないでしょうか。
PCに詳しい方なら f54560zgさんのブログ内のデーターベースを作成されているかも知れず、瞬時に解答を引き出せるかも知れませんね。

TOさん、私はご覧のように安定感がなく、座布団を10枚も積まれますとたちまちバランスを崩し横転してしまいますのでお気を付け下さいね。
おっしゃる列車は、鳥取駅と熊本駅を結んでいた急行「さんべ」ですね。
山陰本線と美祢線山陽本線を通る、分離併合形の気動車急行でした。
山陰地方と九州地方を結ぶ列車や陽陰連絡列車には何故か魅力を感じます。(夜行列車なら格別にロマンチックです)

「べにばな」といえば、私は20年近く前に上映されていた「おもひでぽろぽろ」を連想します。
奥羽本線の夜行列車に山形の情景が印象的な映画でした。
自身も山形近辺へは数回脚を運んでおり、奥羽本線筋の機関区の方々にはいろいろと親切にされた覚えがあり、懐かしさが込み上げてきました。

糸崎駅についてですが、一年以上も前の9月に f54560zgさんから宿題を出されたままの放置状態で、自身もずっと気になったままでして、当日の糸崎駅構内で写した写真を見返したりもしていました。
実は糸崎再訪を企んでいて、諸事情が許せば仁方駅のループ線跡へと脚を延ばそうかとも考えています。
私らしく、日照時間の短い非効率的な時期ですが、宣言効果も相まって、蒸気機関車E10のように鈍重な私が動ければいいのですが…。

そう「三瓶」でした。

陰陽を結ぶ列車、本当に魅力的かつ魅了されます。

私の知っている限り、特急列車では博多ー京都間の「まつかぜ」?、昭和54、55年頃でしたか。
と、もうひとつは、小倉発か門司発の当時日本最長の鈍行列車「豊岡」行きがあったはずです。
当該列車に乗ろうと思い空想の中でプランニングするうちに、時刻表を眺め逡巡するうちに何時しか消えてしまいました。

訂正
陰陽でなく、九陰でしたか。
でも、何故「博多」も「門司・小倉」も日本海なのに山陰といわないのでしょうかね。
「山陰」。差別的という人がいますが、私はまったくそのような意識を持ったことはありません。
とてもいい響きですし、かつて「出雲市ー京都」を結んだ夜行普通寝台列車「山陰」の名称はいつまでも心に残っています。
(鳥取から京都まで乗車しました)

なななんと!
市内の既に使命を終えた感のある本屋で煙草を買いに入ってついでに時刻表を買おうと、うろうろしたところ、ありました。

「新潮社」刊
日本鉄道旅行 歴史地図帳
2号「東北」
サブタイトル「複雑怪奇!東北の多層建て列車」

今から読むところです。
表紙には上段に気動車の、
特急「はつかり」の側面が描かれてあり、仙台、塩釜、松島の楽しくなるような地図が下(大半を占めますが)に載っています。

感想は後程させて下さい。

「多層建て列車」、「循環急行」、「おもひでぽろぽろ」、「陰陽連絡」、それと「EH10さんへ」・・・、いやいや、大変興味のあるキーワードがいっぱい出てきましたね。これらについて語りだしたらそれこそ二千文字では済まないかも。
それぞれを個人的に端的に表現すれば、E10さん同様「たざわ」とその5分後の「千秋・もがみ」、「のべやま」「すわ」、都はるみ、「あきよし」、それと「似て非なるもの」といったところでしょうか。
今後の展開がおもしろそうですね。

先日の本の続き。
その「多層建て列車」については、24・25ページに見開きで掲載されていました。
5つの運転系統図の解説を含め、ざっと数えたところ文字数1,700前後。
運転系統図無しでは、東北地方の都市の位置を知悉されている方にしか理解不可能でしょう。
東北地方については、ほとんど関心がありませんでしたが、あらためてその本の25ページ下半分にある「国鉄赤字ローカル線の廃止」の地図を見ますと、如何に東北地方の地理に疎かったか分かりました。
私の頭の中では、
山形は新庄、米沢は新庄と鶴岡・酒田の中間、角館はずっと北の弘前辺りと思っていた次第で、昭和56年の1月か2月に蔵王にスキーに行った時、上野から山形まで行ったことがありますが、そこが自分の最北端と思っていました。
山形の方が仙台より緯度的には南なんですね。
また、主要都市は線路が十字に交わっている所が多く東北の路線配置の雄大さ、おもしろさを認識したところです。

多層建て列車の複雑さと、私の文章能力から到底語り尽くせませんが、以前「鳴子温泉」から帰る時、古川(新幹線)を通り越し「小牛田」から松島を廻り一瞬見えた島々の美しさは忘れられません。

TOさん、東北地区には面白いところがいっぱいありますので、ぜひお越しください。

【東京鉄道見聞録・前編】
英賀保と神戸のコメントからの移動です。

最終列車の寝台夜行列車に乗り込み数年ぶりに東上します。東京の鉄道を見に行くのは昭和61年頃以来だったでしょうか、本来の目的やきっかけは横浜行きなのですが、あの頃の東京への憧れの気持ちが想い起こされ気分が高まります。
昔はカニやスハネフの重低音の響きと排煙の匂いが旅情を盛立てていましたが、今ではVVVFなるメロディーが旅情を奏でていて、時代はすっかり変わってしまいました。
しかし少し見慣れた沿線の夜景も寝台列車からの車窓は格別で、雰囲気に呑まれながらの一杯はやはり至福の時です。
明石駅を通過後、マリンブルー状にライトアップされた美しい明石海峡大橋が前方に見えて来ます。真下を通り過ぎ後方を振り向くと、点灯していたライトアップが消灯してしまっています。ちょうど深夜0時に明石海峡大橋の真下を通過したようです。
ホームにまだ喧騒感の残る三ノ宮駅を発車し、次は静まり返った深夜の大阪駅に到着です。人影のない整然としたホームを見渡しながら発車し振り返ると、巨大な大屋根が夜行列車を見送っています。
東淀川駅辺りを過ぎてから寝ついていたようで、気が付けば関ヶ原辺りの雪景色でした。ここを通り掛かるといつも気になる古道らしき山裾沿いの細道があり、薄灯りの中をついつい注視してしまいます。
再び眠りにつき、目覚めれば浜松駅の運転停車でした。f54560zgさんのブログを拝見していたので、何か感慨深いものがありました。浜松機関区が在った場所を見当づけ当時の様子を想像してみます。
次の停車駅静岡に向けて発車し、どこかのトンネルに入るとレールの乗り心地が良くなりました。
寝台がパンタグラフの近くなのか、スパークする光が時々暗闇を照らしながら走っています
静岡駅、東静岡駅を見て、「ゆい」と言う駅を通過した頃には海岸沿いを走っていたようで、車窓の遠く向こうは真っ暗闇でした。
満天の星空の下、いよいよ沼津駅に停車です。窓が海側なのが残念ですが、ホーム屋根の支柱が美しく壮観です。(こんな早朝からカメラ姿の方がホームに‥)沼津駅の東側に小さな踏切があり、その昔、沼津区さんもこの踏切を渡たられていたのかな?と、思いが巡ります。
意外と短時間で抜けた丹那トンネル。熱海駅に停車です。
寂れたとは聞いていましたが50年程前は新婚旅行のメッカで、今でも大きな旅館街の灯かりがその証なのでしょう(私の叔母も新婚旅行は熱海で、見送りに行った時に銀河2号のA寝台車オロネ10の丸い屋根が印象深かったのを覚えています)。
根府川駅を過ぎる頃、東の水平線が薄っすらと朝焼け色に変わって来ました。
小田原駅を通過中、東京行きの見慣れない電車が止まっていました。
既に箱根の関所を越えた実感が沸いて来るなか、国府津駅を通過です。ここも窓が海側なのが残念ですが御殿場線がオーバークロスしているのが見えます。
東の空がしだいに朝焼け色にはっきり染まってきて水平線が美しい景色につつまれてゆきます。
たぶん金星なのでしょう、東南辺りの少し低い空から、出雲と讃岐の国からの夜行列車をずっと見守り続けていたかのようにまだ光り輝いています。
藤沢駅を通過するとホームに湘南色の売店らしきものが見えました。
朝焼けもだんだんと白らずんできて金星が今夜最後の輝きを残しています。
電車の車両基地にNEXマークの新型特急が見えます。たぶん大船駅のようです。
もうあの頃とはすっかり変わってしまった東の車両達ですが、変わっていないのは、初めて大晦日から元日にかけてブルートレインに乗車し、車内で新年を迎えた昭和62年の元旦に寝台特急瀬戸の車窓から見た今と同じ夜明けの朝焼け色に染まった東の空でした。
ただ、真新しい電車群に気を取られ、更にあの時と同じ朝焼け色に感動していたら、大船駅のPX線を思い出す余裕はなかったようです。
横浜駅は一部工事中なのでしょうか、本線を跨ぐ鉄橋が撤去された跡が見えました。
終着間近になり品川駅を通過です。国鉄特急色の車両が見え国鉄型185系も出発準備を整えていて、一瞬ですが昭和に戻った気分になります。栄光の東京機関区跡は更地になり、敷地は工事前の最後の姿なのでしょうか。
東京機関区跡を過ぎた辺りでサンライズを迎え、東京駅には定刻どおりに到着し、隣のホームに巨大なガーラ湯沢行きMAXが出迎えてくれました。
西日本では見られない新幹線車両限界いっぱいの姿は迫力満点です。
大宮の10時開館へは時間がありましたので上野駅からちょっと浅草寺へ寄り道です。
上野駅13番線、編成案内もカシオペアと北斗星だけになり寂しくなりました。
余談ですが浅草では東の空に東京スカイツリーが見えました。
上野駅に戻ると、特急草津が多くのカメラを向けられ注目を浴びています。春のダイヤ改正で異変があるのでしょうか。
ホームに停車中の籠原行きに乗ってみたくなり迷いましたが、先発の宇都宮行きに乗り込み大宮に向かいます。
田端と尾久の車両群を目にすると、最新鋭機EF510-500番台が目を引きます。
庫のたかわらにほとんど役目を終えたEF81達が寂しくたたずんでいます。
最後のブルトレ候補、寝台特急「あけぼの」が既に帰区し、今夜の仕業に備えて整備されているようです。
確率は二分の一以下でしたが大宮の少し手前でカシオペアとすれ違います。
大宮駅に着き新交通システムで目的地に向かいます。真下に大宮工場が見下ろせ、トラバーサーも見えました。
開館15分前くらいに目的地に着くと既に数百人の行列でしたが、そう混雑もなくスムーズに入館し奥へ進むと、開業当初の新橋駅のジオラマに目が引かれます。弁慶号や9850型マレー機と神田の地以来二十何年ぶりかの対面です。
順番にじっくり見て行きたいのですが、やはり訪問目的の思い出ある機関車達に会いに行きます。
EF5889。宇都宮の項でお話した24年前の元日の宇都宮運転所構内で、茶色いその姿に幼心から夢中になりシャッターを切っていた想い出が感動とともによみがえります。
そしてEF6611とED75775。山陽筋と東北地域で当時から車番を記憶していた印象深い機関車とも感動の再会です。
館内を巡ると、懐かしい国鉄型車両達の座席を体感出来るのが魅力的ですが、あの独特の車内空間はもう二度と戻って来ないのかも知れません。
解放されていた183系の車内で昼食を取りました。長野、篠ノ井、松本、塩尻などの記憶が駆け巡ります。
館内は転車台の回転ショーや各種遊具などで鉄道博物館が鉄道遊園地と化している所もありましたが、その姿が残っている極めて数少ない当時の想い出の車両達に再会を果たせたことは、それはそれ、これはこれ、で、良かったような気がしています。

後編は大宮から聞き慣れぬ湘南新宿ラインに乗り込み、横浜から青梅を目指します。

東京の鉄道は25年ぶりぐらい、ということでしょうか。大きな変化にさぞかし驚かれたのでは?
一番はやっぱり東京機関区あたりでは?
そういう私も仕事等で東京へはたまに足を運びますが、鉄道目的では果たして何年ごぶさたやら。
線路ばかり見てきましたので、最近の新しい車両はちんぷんかんぷん(死語?)です。

割り込みすみません。
東京までの夜行特急寝台まだあったのですね。
乗られたのは、サンライズ「瀬戸」の方でしょうか?「出雲」の方でしょうか?
私は、下りの「サンライズ」(瀬戸か出雲か)には乗ったことがあります。
米原までです。
東海道本線が、大幅に遅れた時です。
まだ、ブルートレインの「出雲」があった頃です。
またまた話題が変わりますが、サンライズ「出雲」って見た目はスピード感がありますが、同じ伯備線を走る「やくも」より米子まで10分位遅いですね。何故なのですか。

連休中のため、ほぼ満席状態でしたので列車名を指定する余裕はありませんでしたが「出雲」が発券されてきました。
デビューの頃、「瀬戸」と臨時の「ゆめ」を利用したことがあり「出雲」で良かったと思っています。山陽東海道区間は同じ列車なのに鉄道ファンのつまらないこだわりですね。
「やくも」は振り子式車両381系なので曲線区間でもスピードが出せるのと、単線区間の行き違い等の理由で10分位の時差があるのではないでしょうか。伯備線の旅も良いものですね。

実は今、加世田に来ています。
加世田と聞いてピンと来る方は鉄道ファンの中でも少数派なのではないでしょうか。

「加世田」と聞いてもぴんとこないどころか、どこなのかも分かりませんでした。
鹿児島県だったのですね。
どんなお話が聞けるのか楽しみにしています。

ところで、私は今、「都城」から特急「きりしま2号」に乗って宮崎・博多を目指しているところです。
大分までは、初めての路線となります。
大淀川の鉄橋が楽しみです。

日豊本線は単調、というイメージですが、特筆することがあればお知らせしようと思います。

 一昨日指宿枕崎線をテレビで、鶴見線とともに放映され何気なく視聴しておりました。
 鰹節の燻しの煙と枕崎駅の単純化された姿の空撮だけが記憶に残っているだけで…(旧鹿児島運転所を何とか目をこらして見ようとして…)。
 新幹線の連絡前にあって、枕崎、伊集院、どちらからお入りになったのでしょうか。
 加世田…知覧や吹上浜方への支線跡、伊集院駅からすぐの南への廃線跡。十中八九廃線趾に魅力を感じられる方には血が沸く区間でしょう…一応は空撮写真で過去にたどってみたものの、地名も南さつま市となっているらしく、新名称と旧称との間で一種の断裂が生じてしまい、一片の知識も昨今の合併の煽りで、イメージギャップを感じざるを得ません。
 県境を越えて宮崎ではどうでしょうか。大地は赤く吠え、鳥は境無く飛び越え…都城と志布志には一度行ってみたかった…。 

TOさん、ニヤミスでございました。
数日前に都城で宿泊しておりました。約25年ぶりの駅前ホテルでしたが、当時、志布志機関区訪問のため国鉄時代末期と志布志線廃線後には早朝よりバスで志布志駅を目指しました。今回も始発のバスでしたが、天気があいにくで、みなさんご存知のように志布志駅も激変でした。
当時、二度も志布志駅を訪問したのは、志布志機関区の見学者記入ノートが昭和40年代のSLブームの頃からの骨董品級で、またそれが見てみたいと感じていたからです。
数有る機関区でも、そんなに古い見学者記入ノートは他では見かけたことがありませんでした。
ただ、二度目の廃線後の訪問では、志布志機関区自体も廃区になっていて願いは叶いませんでしたが。
TOさんは西九州方面にいらっしゃるとばかり思っていて、少し日程を変えていればお目にかかれる可能性も有っただけに非常に残念です。
日豊本線、いかがだったでしょうか?
私は TOさんの後を追うように宗太郎駅まで行ってきました。大淀川や日向の海岸にリニア跡。大分までは渓谷の峠越えもあり、そして終焉を向かえる485系を原色に戻したりなど、魅力的な線区です。
でも、都城付近や佐土原などは降灰の跡がありましたね。

加世田を訪れた理由は、約40年程前に見ていた趣味誌で広田尚敬さんのカラーフックス蒸気機関車(保育社)に、加世田の廃SL達が掲載されていたからでした。
それは何故か幼心にも非常に印象深く、南薩線の廃線や加世田の交通の利便性などを割り引いても是非とも行ってみたい願望を持ち続けていました。
ただ、行程の都合上、旧西鹿児島駅前からバスで加世田に入り伊集院に抜けましたが、黒土の台地と点在する石垣が目立つ独特の地形具合だったような気がします。
加世田の鉄道記念館に青写真風の戦前の加世田駅の構内配線図が掲げられていました。
2線式短形庫の前に転車台があり、それはもう、何かを新発見したような喜びを感じました。
都城駅は車両基地などの旧国鉄用地と小倉方の専用線跡の一部が残っており、当時の雰囲気を感じさせてくれました。敷地境界線沿いに壁の残骸が一部分見て取れ、墓碑のように取り残されていました。
大口や宮之城も巡りましたが、やはり SYさんのおっしゃる名変で実感は少し薄れましたが、宮之城の商店街の大きさにはビックリでした。大口(鉄道広場でなく公共ホール4F側)には15連から20連くらいのポイントテコが保存されていて、こちらもビックリでした。各地に鉄道記念館が有り、また、バスの車窓から廃線跡も一瞬見えたり、それにバスの運転手さんから親切に教えていただけたりで、昔の自分の脚跡を辿る感傷的な南九州巡りでした。
さっき高架化の進む大分駅を発車しました。今日は小倉駅で下車後、一旦戻り、乗り過ごしの想い出深い豊前長洲駅に立ち寄り、その後、久大本線から日田彦山線、筑豊本線と進み、原田駅を目指してみます。

都城駅のホームは、意外にも端から端まで屋根があり、かつては(今以上に)主要で格上の駅だったろうと想像されます。また、改札口からホームへの連絡は跨線橋でなく、地下通路で繋がっていたのには驚きました。
特急「きりしま」はせいぜい2両編成で、最新ではあるがあまり魅力的でない1月号の時刻表の表紙にあるような列車を想像していましたが、5両編成(4両編成だったかも)で昔の寝台特急電車のような型で少し嬉しくなりました。
大淀川を渡り、宮崎まで。約1時間でした。
大淀川の鉄橋は、以前ディーゼル機関車に牽かれる寝台特急「富士」の勇姿が写真におさめられているのを見たことがあります。妙にうらぶれた感じで(勇姿と言いながらうらぶれたとは何か矛盾してますが・・・・)、旅愁を感じさせてくれました。その印象が強く残っているのでそこを見る為に大回りして長崎県まで帰ろうと思い立ったのですが、まさにそのその鉄橋を渡り両岸を見るかぎりでは、写真で見た記憶にある面影とはほど遠いものになっていました。(あたりまえですか。)
かつて(昭和40年代)、広島発宮崎行きディーゼル急行「青島」の走った足跡を辿ることもこの線に乗ってみたかった理由の一つです。(修学旅行で別府までは乗ったことがあります。)
宮崎から9:09発の「にちりん」に乗り換え一路大分・別府・小倉・博多を目指します。いつも乗る「みどり」と同じ車両だったのは少し残念でした。
日豊本線(南)と紀勢本線(南)は両方とも温暖な地域で右手に太平洋が広がり、偉大なる単線、途中から複線、そして最後は北九州、名古屋という大都市に吸い込まれるという点で似ていると思います。
ただ、紀勢本線は近くに海を見れますが、日豊本線は海岸と線路の間に木々が生い茂り時々海は見えますが、ずーっと日向灘を堪能するまでには至りませんでした。
延岡(入替用の機関車、コンテナの車両が停車しており、唯一駅らしい駅でした。残念なのは高千穂線の廃止?です。復活は有り得るのでしょうか?)から一転山間部に入っての連続したトンネルも、紀勢線の山間部に雰囲気が似ています。同じ特急でも、紀勢線の方はディーゼル特急で喘ぐような息遣いを感じましたが、こちらは電車なのでそこまでは感じられませんでした。
同じ日豊本線といっても大分以南と大分以北とでは線路の響きからして、一地方のローカル線と主要幹線の差程あり、全く別の路線のように感じました。(線路の規格が違うのでしょうか?)

こんなことを感じているうち、博多駅に到着しました。
都城駅を出発して7時間の旅でした。

加世田とか都城とか小倉とか博多とか・・・。
皆さん、仕事していますか???
くやしいんですけど。

f54560zgさん、一瞬どきっとしました。
でも私の場合、出張の帰りですのでご容赦下さい。ちょっと遠回りしただけです。
先に書きましたとおり、まだ乗車していない区間をこれを機会に踏破した次第です。
今思うに、いっそのこと大分で乗り換え、豊肥本線で阿蘇・熊本とする手もあったかなと思っています。
それにしても、昔、宮崎は「陸の孤島」と習ったことがありましたが、実感しました。

出張の帰りで7時間の旅ですか。
ふ~~~ん・・・・。

E10さん、もう九州から戻られたでしょうか?
さぞお疲れのことと思いますが、「加世田」のことや「日豊本線」のこと、もっともっとお聞きしたいと思います。
「東京鉄道見聞録・後編」も期待しています。

九州内夜行と言うより、最後の夜行列車と表現したくなるような「ドリームにちりん」(3月10日が最後らしいです)から小倉駅で下車し、僅か10分ほどで宇佐行きの始発列車に乗換ます。
目的の豊前長洲駅まで約一時間半も日豊本線を戻ります。この行程は25年前のあの頃と同じです。
南九州の機関区を巡り終え、柳ヶ浦機関区や行橋機関区に大分機関区を訪問するために当時このような行程となりました。ただし、時刻は似通っていても下車駅は小倉駅ではなく、当時は西鹿児島発の急行日南(20系寝台車2両12系普通客車4両ほどの編成で20時頃の発車でしたが宮崎までは普通列車で西鹿児島駅から女子高生が数人利用していたのには当時の世相からして印象深く残っていました)から行橋駅で下車し、30分ほどの待ち時間の間に、添田の項でお話した夜明け前の行橋機関区跡訪問だったようです。
ドリームにちりんから乗り継いだ普通列車の車両には小倉駅から既に数人の乗客があり、各駅で乗降を繰り返しながら進みます。比較的大きそうな苅田駅の次の小波瀬西工大前とか言う駅で大勢の乗客が早朝(当日は日曜日)より下車して行ったのには少し驚きでした。
乗り降りする乗客が減り、眠気がきたのか気がつけば柳ヶ浦駅の発車でした。これはまさしく25年前のあの時と同じ状況で、当時は次の豊前長洲駅で柳ヶ浦駅に戻る列車がすぐに有ったのが幸いでしたが、今回は柳ヶ浦駅は通過でしたので、これも幸いでした。
豊前長洲駅で寝過ごす訳にはいきませんので柳ヶ浦機関区跡を車窓から撮影しながら下車に備え、そして数分で豊前長洲駅に到着しました。(豊前長洲→ぶぜんながす。「ふぜんちょうしゅう」と読んでしまいそうです。私の中では「ふぜんちょうしゅう」なのですが‥)
あの時と同じく、軌道にカントがついており、停車すると車体が傾いています。
島式ホームで駅舎に渡る跨線橋があり、列車を宇佐方面に見送ると乗換時間も少なくあの時と同じで、足早に駅舎から駅前に出てみます。途中、跨線橋の上から駅舎や周囲の風景を見渡してみました。確か当時から改札口の線路側に庭園っぽい植木が有った記憶が甦ります‥。
この駅には印象深い想い出がありました。
柳ヶ浦で下車しなくてはならないのに寝過ごしてしまい、それはもう人生で最初の列車での寝過ごしでした。柳ヶ浦駅で目覚めたのは数十秒遅く、ドアが閉まる音と共に起きたようで、去り行く柳ヶ浦機関区跡の光景は今だに忘れられません。
次の豊前長洲駅に向かう車内で時刻表をめくり、柳ヶ浦駅に戻れる列車が10分も待たずに有ると分かり安堵したことも鮮明に記憶しています。
そして数分で豊前長洲に着くと私の他にもう一人40歳前後くらいのお兄さんが降りました。こんな田舎めいた駅に下車する人もいるんだと思いながら、わずかな時間ながら駅舎でも見ようと跨線橋を渡りホームから出て待合室に行きました。
するとそのお兄さんも待合室から出ることなくそのまま待合室にいます。
「なんだ、あんたも寝過ごしたんか?」「はぃ‥」九州の名も無きような駅に偶然寝過ごした二人が待合室で顔を見合わせ、そこで苦笑いをしていました…。
さすがに25年も経った当日の豊前長洲駅の朝に降り立ったのは、郷愁感に苛まれた私以外に誰もいませんでしたが、駅舎玄関口横の駅名板が印象深く、それは25年前に見たままだったのではないかと感じました。
当時、待合室を出て短い駅前通りを突き当たりまで進み、街道筋のような道路を眺めてから駅舎に戻りかけると、待合室の玄関口からそのお兄さんが「早くこいこい」と手招きをして二人で慌てながら跨線橋を渡ると、乗り過ごした二人が柳ヶ浦駅に戻るために乗車する、赤いED76に牽かれた長編成のレッドトレイン50系客車がホームに滑り込んできました…。

波瀾じみた当時の旅の軌跡を辿るE10のケシカラン旅はもう少し続いて行きますが、猫OGさん、私の場合は人生の悠久昇華の旅でして、実車のE10型蒸気機関車なら、米原-田村間での最期の活躍と言ったところでしょうか。
くれぐれも御自愛下さいませ。

25年前の、ある意味不本意な、また逆にそれゆえ記憶に残った下車駅を再訪されたわけですね。何ともロマンですね。それともリベンジでしょうか(笑)。
私の旅先での寝過ごしは鳥取→湖山の1回だけですが、帰りの通勤電車では何度かありましたね。不思議なもので、降りなければけない駅を発車する際のガタンというショックで目が覚めるんですよね。
実車E10の米原-田村間での運用は交直接続という大変重要な任務でしたから人間E10さんもまだまだ大活躍ですね。

【東京鉄道見聞録・中編】
新宿湘南ライン。どうやら赤羽辺りから貨物線か短絡線を走るような感じらしいと漠然と思っていました。
いつものルートなら京浜東北線で横浜に行くのですが、せっかくなので違う路線に乗ってみたかったのと速達性も考慮し、新川崎を通るなら新鶴見機関区を見られるのではとの期待感もありました。
大宮駅で乗換時間もあったので、関西には無い普通グリーン車に体験乗車をしてみようと、みどりの窓口に行きグリーン券を求めます(普通グリーン車は鷹取の項での話以来です)。
たぶんこちらの「びわこライナー」のような感じだろうと目的地の根岸線の駅を窓口で言うと横浜までのグリーン車の切符を渡されました。料金を見て距離制なんだと気がつきます。日頃、普通グリーン車に接していないとこんなもんです。
ホームに降りて列車を待つとすぐに逗子行きが入線してきました。しかしグリーン車は目の前を通り過ぎ、はるか前方へ行ってしまっています。普通の車内はけっこう混み合っており、車内通路を前方グリーン車まで歩くのは大変だと思いホーム脇をグリーン車の方へ急ぎ足で向かいます。しかし東京の15両編成は手ごわくあなどってはいけません。明らかに関西の最大12両編成の感覚とは違い、なかなかグリーン車まで辿り着けません。発車合図と同時にようやくグリーン車のドアに滑り込みなんとか間に合いました。
しかし、グリーン車の車内は混み合っており、なんとか下段の最後に空いていた席に座ることが出来ました。
あとで分かったのですが、編成途中に先頭車両どうしの連結があり、危うくグリーン車に辿り着けなくなるところでした。
乗務員(グリーンアテンダント?)が検札に来てから車内の様子を見ながら少し落ち着きます。朝からロングシートばかりだったので首都圏でのクロスシートはなかなか良いものです。
座席の頭上になにやら緑と赤のランプが点いています。どうやらこれが空席の有無の印しのようです。
そうこうしているうちに池袋方面へ線路が別れて行くのが分かります。
尾久や田端をもう一度見たかったところですが後ろ髪を引かれる思いです。
池袋、新宿、渋谷を通りビール園にEF58が置いてあった恵比寿を過ぎて大崎辺りから違う線路に入って行ったようです。
大井工場が見えて来ました。場内に貴重な車両が眠っていると聞いたことがあり大宮工場とは少し違った気持ちで見てしまいます。
多摩川を渡りしばらくすると新鶴見機関区の横をあっという間に通過しましたが操車場跡はかなりの広さで、すすきが西日に照らされ綺麗です。
一瞬垣間見た新鶴見機関区の庫は大きく、その威容を誇っていましたが、そのかたわらに保留車が列をなし寂しさは否めません。
横浜駅で乗換予定でしたが、大船駅から根岸線に入るほうが便利らしく大船駅で乗換ます。
大船駅は電車区の存在から、こちらの明石駅くらいを想像していたのですが、神戸駅等を上回るくらいの混雑ぶりに圧倒され、またもやPX線を思い出す余裕はなかったようです…。
この辺りは、○○台と言う駅が続いていて珍しいですね。北海道の西○○や○白滝を連想してしまいます。
その日の夜の宴で横浜の叔父さんから興味深い話しをお聞きしました。静岡辺りで50年程前に発生したクロ151の廃車事故の3両目に乗車されていたそうで、その事故の事は知っていましたので驚きました。
日付が変わり、いよいよ青梅駅を目指します。前日下車した駅は港南台駅でいたが、本日は洋光台駅からの乗車となりました。根岸線に未乗車区間が一駅区間だけ出来てしまいました。
根岸駅の辺りで側線群にタキがたくさん並んでいます。EF210の姿や専用線の入換DLが3両もいます。(後日ここから震災救援列車が発車したみたいですね)
桜木町で横浜線に乗換ます。最近は便利になり、携帯からでも乗換案内がすぐに出来て、根岸線から青梅駅までは横浜線ルートと南武線ルートの二通りあり、到着時間は同じでしたが機関区のある八王子経由となる横浜線ルートを選択しました。桜木町からの電車は6枚扉のある編成でした。東京に来ると、まるで扉が走っているような車両に乗るのが楽しみだったのですが、いつの間にか山手線から消えてしまっていたので再び乗車できたのは嬉しかったです。
横浜線は10年程前に秦野市へ行くため新横浜駅から町田駅まで利用したことがありその先は未踏区間です。
八王子方面に進んで行くと相模原の辺りでしょうか、右手に見慣れぬ風景が広がりを見せています。どうやら米軍基地のようです。(専用線跡らしき部分も見えました)また、左手には富士山が一瞬見える場所もあり、私鉄の車両基地が見えたり、沿線風景に飽きることなく八王子駅まで過ごせました。
八王子駅手前で乗換放送が始まり、八王子機関区が頭を過ぎります。
f54560zgさんの八王子駅の記事を拝見していたので、もしや転車台が車窓より見れるかも知れないと思い慌てて席を立ちドアの窓に食いつきます。外を見ると既に八王子機関区の転車台が近づいていました。そこは昔取ったきねづかなのか、素早くカメラを構え、なんとか通り過ぎ様にシャッターを切りました。
後で画像を見ると、逆光気味でしたが近影撮影には成功したようで、近くで八王子機関区の転車台が目撃出来るとは思っておらず、ちょっぴり嬉しく感じました。
八王子駅で乗換時間の間、機関区風景などを撮影しながらホームにいると、特急「かいじ」が入って来ました。JR東日本の新型車両でしたが、なんと驚いたことに八王子駅のホームアナウンスが「特別急行かいじ」とアナウンスされていました。
遥か昔、40年程前に城崎へ温泉旅行に行った時の豊岡駅か城崎駅で初めて「特別急行まつかぜ」と聞き、「特別急行」の言葉の重みを感じた事が脳裏に過ぎります。
また、八王子駅構内には ED112001号機が待機していて、静かなエンジン音を響かせていました。
国鉄民営化項に茅ヶ崎機関区で見かけたような気がし、それ以来かもしれません。
次は八高線の川越行きで青梅線への乗換駅である拝島駅に向かいます。
乗車した車両は クハ2093001で、関西在住者からは想像しがたい車番でした。
次の北八王子駅には30数年前に一度だけ下車したことがありました。
信州の機関区巡りで新宿駅から上諏訪駅まで夜行列車に乗るため、小淵沢駅から新宿駅へ向かう途中に八王子駅で乗換、一区間だけ乗車しました。
当時の微かな記憶では駅前は閑散としており高崎方向へ一直線に伸びる線路脇には何も無かったように思います。
今では駅周辺は活気づいており隔世の感とはこのことなのでしょう。
当時、北八王子駅から八王子駅に戻る時、キハ35に乗車したのですが、手動ドアだとは判らずにドア前に突っ立ていたらいつまで経ってもドアが開きません。
焦燥感の中、隣の車両に乗る乗客がいて、あわてふためきその乗客が入ったドア目掛け突っ走り乗車した思い出がありました。
車内の乗客から失笑の眼差しを受けていた苦い思い出でしたが…。

拝島駅は全国的にも珍しく5方面から路線が来ていて、駅構内は乗換客で賑やかで、新宿方向には車両基地跡らしき部分も見受けられました。

次回は、昭和レトロで売り出す青梅駅から、いよいよ青梅鉄道公園の地に26年ぶりくらいに訪問します。

TOさん、遅くなり申し訳ありません。

3月上旬にはコメントをほぼ書き終えていたのですが、その直後の大震災の惨状に、関東方面への話題を躊躇ってしまい、1月以来の間の抜けたコメントになりすみませんでした。

やはり f54560zgさんのおっしゃるように、東京機関区の更地化を目の当たりにして、寂しさを拭いきれませんでした。(確か以前の沼津区さん?のコメントで知ってはいましたが…)
それとJR東日本の新型車両には確かにちんぷんかんぷんで…。

・湘南新宿ライン
昔は国鉄職員か貨物にでもならない限り通ることができなかったところを通れるようになったわけですから、その点ではうれしいことなのですが、それだけ貨物が衰退したことを考えるとちょっと寂しいですね。
・普通グリーン車
1回しか乗ったことがありません。夏の関西で。新快速は当然冷房化されていましたが、快速の普通車はまだ冷房化されていなかった頃です。涼しい新快速に乗りたかったのですが混んでいて座れそうもなく、ふと隣の快速のグリーン車が目に入ってついつい贅沢をしてしまいました。実に快適でしたね。
・クロ151
すごい貴重な(?)経験をされたんですね。でも、乗車していた列車が事故にあう、というのはできれば御免ですよね。
・八高線
私の感覚では横浜から青梅といえば間違いなく南武線経由です。それはE10さんおっしゃる通り、八高線といえばキハ35のイメージですから(笑)。電化された今の八高線に対して失礼ですね。

f54560さん始め皆さん、本当にお久しぶりです。暫く書き込みしていませんでしたが、関東の路線の話題、とりわけ八高線が話題にのぼっているので書き込みしたくなりました。
25年くらい前最初に東京の勤めをした時、どこからどこまでだったか、とにかく八高線に乗った記憶があります。
旧国鉄のあのどこにでも見れたちょっと良くない色合いのディーゼルです。呉線を走っていたのとは違い、外側に開閉用の押しボタンがあったのが特徴的でいかにもローカル列車という印象でした。当時は、小平市にいましたら西武線で拝島に行きそのあたりの駅から乗ったのではないかと思います。

それから、5、6年経って2度数目の東京勤務の時は国分寺から南浦和?までだったか武蔵野線に乗車した記憶があります。
でもこの線、単調すぎてなんだか気持ち悪くなった記憶が蘇ります。

最後に、話題はがらっとかわりますが、先の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた三陸鉄道の会社に些少ですが寄付をさせて戴きました。
あの「盛ー盛岡」の「盛」駅のある鉄道会社です。いつか乗りに行こうと思っています。

TOさん、ホントにお久しぶりですね。お変わりありませんか。
失礼ながら、八高線は多分呉線よりは都会的かと(笑)。
武蔵野線はもともと貨物線で計画されただけに、他の線区とは雰囲気がちょっと違いますね。
三陸鉄道、大変でした。復活を願う気持ちと、悪い予感とが半々です。

ど、ど、どどど。
ド、ド、ドドド。
怒、怒、怒怒怒。
当時乗車した八高線の列車の方が明らかに田舎的でした。(大笑い)
本当です。よ!

実は、本日7月1日付で沖縄県に転勤となりました。
会う人会う人に「いいなあ」「俺と代わってくれ」と言われますが、私にとっては青い海より、白い砂浜よりレールです。
モノレールがあるのはちょっと嬉しいですが・・・・・・。
何より、鉄道が無いのがさびしいです。
戦前は沖縄にも鉄道があったと何かの本で読んだ記憶があります。
廃線跡も無いでしょうね。

TOさん、八高線の件、それはそれは失礼いたしました。・・・・・・っと、それよりも沖縄ですか?オ・キ・ナ・ワですか?なんとまあ・・・。
う~~ん、それはキツイですね。
何年ぐらいでしょうか。耐えられますか?(笑)。
とりあえず廃線跡レポートお待ちしています。

沖縄「ゆいレール」。
10日程前に那覇空港から終点駅(かつ始発駅)首里まで乗ってみました。

2両編成です。
座席はクロスシートではなく、対面式のロングシートですが、一人ひとりに背もたれがあるので少しは気分がいいです。
また、運転手後方の座席は前方に向けてあり(後方は後方に)、展望が臨めます。
多分全ての列車が同じ編成になっていると思いますが、観光県であるなら一つや二つ特別列車を走らせればと思いました。でも、那覇市のオヒィス街を走り通勤客も乗せるのでいたしかたないか。
終点首里駅。
若い二人連れが降りもせず、運転席の後ろの座席に素早く移動。私と同じことを考えていたようでした。
慎み深い?私は、断念し首里駅で一旦下車。切符を買い直し次の列車を待ちます。
しかしこの列車もその席に座ることは出来ませんでした。今度は家族連れです。
小さな子がこれにより、鉄道ファンになってくれるならまあいいか!
ということで次回のお楽しみとしましょう。

TOさん、沖縄生活いかがでしょうか。やっぱり暑いんでしょうね。台風とかは?
ひょっとしたら沖縄には鉄道ファンは存在しないのではないかと思っているのですが、モノレールファンなら今後は期待できそうですね。

はい。

やはり鉄路の無い地はもの足りません。
しかし、見つけました。那覇の少し南、糸満市(沖縄水産高校近く)のドックにです。
船を引き揚げ、修理するところ迄の鉄の路です。 青函連絡線の貨物線を彷彿させるものでした。

さすがTOさん、よく見つけられましたね。その気になればまだまだ他にもあるかもしれませんね。

最近BSテレビをみる毎に、ヨーロッパの鉄道やシベリア鉄道、中国のてつどうが深夜の放送で流されていますか、なんと言っても、日本の国鉄の色合いが落ち着きます。

でも最近は(最近と言っても結構前ですが)、地方により、線区により、車両により、いろいろバラエティに富みすぎて、ちょっとついていけません(汗)。

TOさん、こんにちは。

沖縄で、軽便鉄道を売りのひとつにしている観光施設のことをネットで知りました。
名護市にある「ネオパークオキナワ」がそれです。
同パークのHPに
「戦前、沖縄島民の足として親しまれていた軽便鉄道が4分の3スケール で復活!広い園内と、各フライングケージの一部を、20分ほどでめぐります。 」と説明してあります。
施設は動物園と植物園を兼ねたもののようです。鉄道は、遊園地にあるような遊戯鉄道のようですが、1周20分とはけっこう乗りでがありますね。
行かれた鉄道ファンの報告が以下のブログにあります。
とれいん工房の汽車旅12ヵ月
http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20110911/p1)
   

こんな施設があるなんてちっとも知りませんでした。
明日にでも、というわけにはまいりませんが、行った時にはご報告いたします。
楽しみが増えました。
情報ありがとうございました。

沖縄。
線路無半年。
フラストレーション。限界。
でも、沖縄の民謡「西武門節」に「電車」乗るの一節があります。

さっき唄いました。

少しはぶてて(久しぶりに広島弁ですねているという意味です。)います。

TOさん、心中お察しします(ちょっと笑)。
私なら1か月が限界かも。
こちらは寒さで震える日々が続いておりますので、その点ではうらやましい限りなのですが。

有難うございます。

心暖まるお言葉、有難うございます。

最近沖縄のタクシーに乗るたびに北部の「名護」市から、中部の「具志川」・「沖縄」市、県庁所在地の「那覇」を経由し「糸満」市(かの有名な沖縄水産高校があります)まで鉄道を敷設したらいいのにねえと宣うと皆さん賛同してくれます。

ということで、仮称沖縄中央鉄道の開通を目指す自称会長にでもなろうかなと妄想を抱いているところです。

おっとその前に、戦前の沖縄軽便鉄道の廃路を探してご報告する方が先でした。

いつまでも経っても「寝言は寝て言え」のTOです。
それでは、お休みなさいませ。

TOさん、「お休み」というよりは「おはよう」の時間帯のようですが・・・。
沖縄中央鉄道開業の暁には初代社長確定ですね。でもそうなったら趣味ではなくて仕事になってしまうかも。

沖縄から1時間ばかりの渡嘉敷島にいます。
琉球新報の片隅に「薩肥線路を世界遺産に」の記事が掲載されていました。
2つもあるスイッチバック、山をぐるりとほぼ一周する壮大なループ。確かに世界遺産に匹敵すると思います。
しかし(というところが可愛くないところ)、出雲坂根のスイッチバックの雄大さには敵わないと思っているところです。

嘉例川(鹿児島空港の近くの無人駅:駅名少し違っているかもしれません。)駅常備のノートに出雲坂根のスイッチバックのことを書き込んだ記憶が蘇りました。

JR九州とJR西日本。鉄道(観光)に取り込む姿勢が違いすぎると思っています。

???渡嘉敷島???
今更お伺いするのも変ですが、TOさんのお仕事って?
今でこそ海外が主流ですが、かつては宮崎などが新婚旅行の代表格であった通り、やっぱり九州と言えば「観光地」ですからね。力の入れ方が根本的に違うような気がします。

那覇の西方、フェリーで70分のところです。
こちらに来て特にどこにも行っていないので、休みを利用しちょっと観光(日帰りです)に行ってみただけです。
特別観光スポットはありませんが海は青く(マリンブルーと言うのでしょうか)、まっ白な砂浜と松、「白砂青松」健在なりといったところです。
東側は山陰本線から眺望した山陰海岸を、西側は小島が浮かび瀬戸内海を連想させる景観でした。夏に来るところですね。
鉄の話題からはずれましたが、大きく乗り物の話題ということでご容赦下さい。
あっ、それから私は以前も申し上げましたとおり、普通の会社員です。
列車を見て胸が高なり、構内の配線に胸踊らされ、車輪の振動で夢心地になる「準鉄」です。
今年も本ブログへ参加させて戴きたくよろしくお願いいたします。

TOさん、青い海に白い砂、せっかくの沖縄ですから十分自然を堪能して下さいね。線路ばっかり見ているよりよっぽど健康的です。
今年も数多くのコメントお待ちいたしております。

線路無しの沖縄種(レ点)ですみません。

「琉球新報」の読売(?_?)或いは朝日(?_?)の「天声人語」のような一面の下段に沖縄の軽便鉄道の記事が掲載されていました。

嘉手納まであったそうです。

今日は、旧暦の3日です。

TOさんって、ホントに「普通の会社員」さんですか?
もう少し早くお休みください。

ホントニ、ただの会社員です。
お酒に弱いので、飲むと飲まれて朝まで眠れず、ついつい投稿してしまうのです。

沖縄の軽便鉄道、結構、意外と長い距離を走っていたみたいです。
もう少し調べてから、投稿させて戴きたくよろしくお願いいたします。

TOさん、私もお酒はダメですが、逆に寝てしまう方ですね。軽便鉄道のレポート期待しています。

コンビニで買った「沖縄県謎解き散歩」(㈱人物往来社)。
最後の6章に、現在の那覇バスターミナルはかつては沖縄県営鉄道の「那覇駅」だったの記述がありました。
今まで数回通ったり降りたりしましたが、全く気が付きませんでした。
機会があれば、写真撮影をしてみたいとおもいます。
なんだか、胸がわくわくしている昨今です。

TOさんの「鉄」の血が騒いでいるように私には思えるのですが。

おおせのとおりと思います。
あれから2回、那覇バスターミナルに行きました。確かに、何となく鉄道特有の扇状の曲線の痕跡が感じられます。
今はただそれだけです。

かすかな鉄道の匂いを追い求めるTOさん、今後のレポートが楽しみですね。

またまた、お叱りを覚悟で敢えて早朝投稿しますが・・・・・・。

なかなか、琉球の鉄道について書き込めません。

お願いがあるのですが・・・・・・。何か契機となる話題を頂ければ幸甚に存じます。

よろしくお願いいたします。

那覇バスターミナルの写真は撮影したのですが貼り付ける技術がありません。

ついに「日本海」も廃止。のニュースに愕然。
しかし、一度も乗ったことの無い列車にあれこれ言う権利は無いと思ったことも確かです。
せめて、東北地方の復興にめどがついてからにして欲しかったと思うばかりです。
復活を望むばかりです。

TOさん、話題のご提供は難しいですが契機のご提供なら何とかなるかも・・・。今日はダイヤ改正初日ですね。恥ずかしながら改正の内容をよく知らないのですが、去る者を惜しみ、来るものを暖かく迎えたいと思います。
それはそれとして、4時とか6時とか、ホントにお体を大切にしてくださいね。

今、沖縄です。

本日は、今日中に発信します。

乗り「鉄」にとって琉球は物足りないのですが、バス(ブスッではなく)は意外と発達しています。

結構おもしろいですよ。
最後にクイズ、
「勢理客」と書いて何と読むでしょうか?

TOさんにしては珍しい時間帯のコメントありがとうございます(笑)。
「勢理客」、最初にひらめいたのは「セリカ」でしたが、何も車の名前を漢字にする必要はあるまい、と思ってすぐに検索してしまいました。母音の「e」→「i」、子音の「k」→「ch」が沖縄方言の特徴とは初めて知りました。

沖縄では、近々県議選がありますが、その候補の中に「鉄軌道(化)事業(たぶん)導入」を謳っている方がいました。
また、新聞にも同様の記事が掲載されていました。
私としては夢のような話ですが、果たして鉄道が敷けるのか?疑問に感じているところです。

TOさんのために掲示板を開設しました。
http://senrohaisenzu.bbs.coocan.jp/?m=listtop
写真などありましたらこちらに投稿してみて下さい。

TOさんの為に・・・・・・なんて感極まります。

私はただの鉄道好きに他なりません。

東京オリンピック、東海道新幹線開業前に広島県から大阪まで急行「安芸」に父親と一緒に乗り、大阪環状線「鶴橋」(親父は省線と言っていました。)で近鉄の準急に乗り、小坂(小阪)まで行っただけです。
帰りは、急行「宮島」だったと思います。(どなたかご検証お願いいたします。)

と、いつものようにとりとめの無い話でお騒がせいたしました。
50年も前の話です。

TOさん、またまたものすごい時間帯ですね。夜更かしなんでしょうか、それとも早起きなんでしょうか(笑)。TOさんのとりとめのない(失礼)お話、今後も是非お願いいたします。写真の投稿お待ちしています。

また、物凄い時間ですみませんweepdowndown。(でも本当は、たまたま今の時間に起きただけなので、それまでに書き込みしていただけですので、ご心配は不要です。)
で、何を言いたいか?ですが、最近鉄道が見直されているという記事が散見されます。
貨物列車や新幹線のことです。
私の個人的な見解ですが、長崎新幹線はおもしろくないです。
・白い「かもめ」がなくなるかも。
・鳥栖駅が淋しくなる。
・肥前山口駅も淋しくなるのでは?
等々です。

ご見解お願い申し上げます。

配線図に記載される事のない横取り装置、いつも車窓から興味深く眺めています。
一度、横取り装置の特集などして頂ければ、非常に嬉しいです。

TOさん、個人的には新幹線が面白くないというのは同感ですね、長崎新幹線に限らず。効率化が徹底されているせいでしょうか。逆に言えば効率化が推進されたことによって昔の鉄道輸送の無駄の多さが趣味的には大きな魅力と感じられるようになったのかもかもしれませんね。
すみもとさん、横取り装置には詳しくありません、スミマセンです。レイルエンヂニアリングさんのブログが詳しいです。
http://oomatipalk2.blog91.fc2.com/?tag=%B2%A3%BC%E8%C1%F5%C3%D6

随分久振にです。
ほんの少し前に、あるブログに呉線の急行「音戸」のことが載っていました。

客車でなく、電車trainの、しかも呉線回でない列車でした。
やはり「音戸」は、音戸の瀬戸です。

なんとまあ熱心な討論が続いたものですね。そのパワーをいただきたいものてす。
はじめの方に出てきました福山駅は電化前の状況もよく覚えています。三次から8620がやって来て、構内入換はC50でした。
三原と糸崎の関係はほぼ結論が出たようです。両サイドの尾道と三原は用地がなく現実には無理でした。
上りで瀬野に到着するとき、D52が煙をくゆらして待機する横を通り過ぎるのは大好きな瞬間でした。
呉線の広駅は、夜間滞泊の客車を留置して機関車は呉の機関支区へ回送します。支区に転車台はあるのに大型機が載らないため片道はバック運転でした。それも朝の通勤列車を優先して前向きとします。

久々です。
久々に沖縄から東京に出張しました。
やはり,内地の列車は重量感がひしひしと感じられいいもんです。
たまたまテレビで黒部のトロッコ列車、宇和島の新幹線列車、八戸の・・・とやってます。
木次線のトロッコ列車や九州のループ線・矢岳越えなんかも期待していますが・・・。

全ての広止めの蒸汽機関車牽引の列車が、バックでもなかったようです。

TOさん、沖縄の方は「本土」では?
「内地」は北海道の方と聞いた覚えが・・・。

内地と本土

先日、沖縄は内地とは言わず、本土ではないか?とのご指摘がありましたが、それからそれとなく何人かの沖縄の人の発する言葉を聴いていたところ、ほとんどの人は本土とは言わず、内地と言っていました。

これに関しては、沖縄の人が、沖縄のことを「うちなぁ」と言うことからも推察できるのではないないでしょうか。

すみません。鉄道の話しからそれてしまいました。

TOさん、そうですか、それは大変失礼いたしました。「本土」って言葉を使う人はいないのでしょうか。

 2009年9月ごろに論じられた八本松における補機の走行中解放について。

 ブレーキ管は連結していません。解放するのですから当然ですが、規程には抵触します。紹介された広島局の規程は後になって本則違反だとして問題になっています。
 
 解放箇所は八本松の上り場内の手前でした。これは現場を観察すれば妥当な場所です。
 当然ながら駅間になるので、1閉塞区間内に2本の列車の存在を認めるのかと問題になりました。
 その対策として、第1閉塞を第1場内と名称変更して、現場を八本松構内に含めることでツジツマを合わせました。駅構内は駅長の専決で行えますので規程に抵触しません。解放作業の無くなった現在もそのままです。

 八本松駅の勾配は、場内から最初のポイント手前まで上り20‰、ポイントからホーム中央まで上り10‰、ホームの残り半分がレベル、ホームを外れると下り3.3‰、出発の手前から下り10‰となります。まさに峠の駅てす。

 解放操作は自動連結器なので解放テコを扱えば終わります。
 初期には解放ロッドが運転室に延びてい機関助士がヨイショと扱ったそうですが、後には空気操作のシリンダが連結器の横に設けられ、機関士のコック扱いで操作することになりました。蒸気機関車D52時代には、この区間で使用することのない砂撒きコックの後進位置を流用していました。

 解放した補機は直ちに停車して、打ち合わせの後に移動を開始しますが、面倒な作業をを省略して解放後に最徐行で駅中心に向かうことが慣例化していたそうです。
 ある日、解放後に通過予定の貨物列車が八本松に停車しました。理由は別のことでしたが本務機は普通の停車手配をとって出発信号機の手前に止まりました。
 そこへ解放後に停車せず無断運転で進入した補機が追突して事故となりました。夜間の曲線で見通しは悪くふだんの慣れが招いた事故です。

 時代が下がるとブレーキ管の不連結が保安上の問題となり、全列車が停車して解放することになりました。追突事故も後押ししたと読みとっています。
 八本松は着発線が3線しかなく有効長も不足したおり、勾配で述べたように構内入換は常に勾配作業になります。
 これを避けるために隣の西条駅での解放となりました。当時は優等列車の待避が増化する一方でしたので退避駅の整備も兼ねたようです。西条は待避と補機の折返しの設備を完備した配線となり、現在でも有効に役立っています。
 この停車解放の開始は43-10の頃と記憶しています。


 このページで紹介された山陽本線まわりの出来事は私にも身近なことでした。また揚げ足とりをするかもしれません。

 みなさまの年齢層も広範囲のようですね。私も勘繰られる前に自己紹介します。1940年生まれです。


C6217さん、セノハチの情報ありがとうございます。
走行中の後部補機解放って、普通に考えたらNGですよね。実際に事故もあったんですね。
>1940年生まれです。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。

本来なら、広島や長崎の記事の出現を待ってコメントすべきなのかも知れませんが先走りをご容赦下さい。
f54560zgさんのblogを拝見させていただくようになり、毎年この時期になると思い出すことが有りました。やはりそれは国鉄時代末期に広島機関区や長崎機関区を訪問したときの思い出です。
f54560zgさんや鉄道趣味をされている方々ならご経験されたと思いますが、私も全国あちらこちらに鉄道関係での慰霊碑や神社などが目に留まることがよくありました。しかしながら他所には失礼なのですが、それらを目にしても直視することは稀でした。でも広島機関区と長崎機関区の構内にある慰霊碑を目の当たりにした時は、しばらくその前に立ちすくんだことを思い起こします。
古くから言われてきたことですが、被災直後から鉄道が動きだし、その様子が被災者の方々を勇気付けたと聞き及び、鉄路には様々な想いを伝えていく力強さがあるのだと感じています。

私も恥ずかしながら慰霊碑等に関心を持つことはほとんどありませんでした。でも広島や長崎は特別かもしれませんね。
E10さん、素晴らしいコメントありがとうございます。

先日、夏休み期間中に久々の三江線乗車をしてきました。祖母の故郷が石見都賀駅付近の旧大和村で、三次の駅前旅館に泊まり始発列車に乗車したのですが、18切符期間だったからでしょうか、平日にも関わらず10名程の乗客があり、既に三江線惜別乗車は始まっていたのだと実感させられました。
駅員さんにこのところの利用状況を尋ねると、土日や連休中は、三次発江津発に異差はあれど5時台の始発にもかかわらず40名から120名程の乗車があり、三江線の魅力の高さに驚きました。
ネットを探れば、三江線の魅力的な情報は溢れていますので、興味のあるかたは残り半年程の時間となってしまった三江線の魅力を感じてみてはいかがでしょうか。
三次駅から同乗して口羽駅の手間で下車していった名古屋から来たと言う鉄道ファンの方にいろいろお話を聞くと、新幹線の新開通区間、沖縄県、可部線の末端区間、それに高徳線以外は全線完乗したと言う猛者の方で、未乗区間の高徳線に関しては珍しい列車が走っていて、岡山発徳島行き 特急うずしお は2回向きを変えるそうです。(以前ご紹介したユーチューバーのスーツさんもレポートされていました。)
三江線に関しても、川添いの車窓も魅力的ながら既に5回もさよなら乗車に来たファンの方がいたことや、三江北線と三江南線の間の区間は公団建設により線形の造りが違っていること、三江南線は貨物営業はなかったのですが貨物用側線の配線準備をしていた駅があったり、近年に三次駅の三江線部分の構内配線が改良されたりと、いろいろとお話が聞けました。
無言の一人旅もいいものですが、他の鉄道ファンの方にいろいろお話を聞きながらの旅も楽しいものです。
私の乗車した三江線の車内は、鉄道ファンと地元利用者のふれあいや、車窓には沿線の方々が手を振っていたりと朗らかな様子でしたが、廃線の一報を聞いた時は、観光列車とか走らせれないものなのかと思ったのですが、実際に線形を見てみると南北線の一部分は災害に弱そうな雰囲気で、ちょっとあぶなっかしくて観光車両の投入は二の足を踏むと言ったような印象でしょうか。
私も、羽幌線や二俣線のさよならフィーバーを経験したことがあり、三江線でのキハ120系2両編成でも100名以上の乗車は旅ではなく景色の違う通勤通学列車と化してしまい、魅力的な三江線終焉に向けて サロンカーなにわ や先日退役した レトロ客車等は不可能でも、早々に臨時列車や増結車両を投入出来ないものかと感じてしまう今日この頃です。

E10さん、三江線もあと半年あまりですか。自然災害に悩まされたようですが、逆に言えば風光明媚な路線ということなんでしょう。残念ながら私は訪問できそうにありませんが、大勢の皆さんで最後を送ってほしいですね。

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線路巡礼:山下貨物線 東横浜貨物駅(桜木町駅の隣)から山下公園を経て山下埠頭までの貨物線。 正式名称は知りませんが、 貨物線の最高傑作のひとつです。 1993年8月。 奥さんと横浜のミナトを散歩したときに線路巡礼。 近い場所なのに、意外と行かないのですね。 ひとりじゃ(笑) 1989年の横浜博以来です。 (もちろん、あの時は横浜博じゃなくて、臨港線に乗りに行っただけ、笑)  http://blogs.yahoo.co.jp/lunchapi/50112825...... [続きを読む]

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