酒田機関区 1980/5/25
清川-(127D)→酒田12:50着/13:50発-(830D)→鼠ヶ関
昨日の酒田の記事から約1年半後に再度訪れました。
127Dはキハユニ2636、830Dはキハ47518に乗車しました。
扇形庫はわずか4線ですが、番号が7~10となっているところを見ると、昔はもっと大きかったのでしょう。
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東北新幹線が開業し、ダイヤ改正は上越新幹線開業を待っている時であった。
普通列車で、北上へ戻り途中通貨待ちの退避線に停まり、廃止になった‟やまびこ”の通貨待ちであった。北上から、陸羽西線で新庄を挟んで陸羽東線で余目へ、普通列車で何日間かけて酒田へ出た。
酒田から秋田行の普通列車に乗り、当時親みたいな年齢の車掌に敬語で言われなくて、気が楽であった。‟ED75”を期待していたが、特急列車の間合いであってか、‟EF81”であった。始発の酒田で、いなほが先発して、途中で抜かれることなかった。羽後亀田に着くと、砂の器で刑事役の丹波哲郎と森田健作が下車したシーンで始まった駅かである。列車交換の時は、‟EF81”が大阪行の急行‟きたぐに”が12系客車で通過した。
秋田から大阪行の‟日本海”に乗り、当時は秋田まで‟ED75”で来て、敦賀第2機関区の‟EF81”に換わった。
何年か経って、象潟から山形へ行き‟ED75”で来て酒田で‟EF81”に換わった。羽越本線の秋田機関区の‟ED75”は普通列車と貨物列車で、優等列車は‟EF81”を使用して、酒田は新潟鉄道管理局になり、機関区が関係していた。酒田機関区の
‟EF81”が敦賀まで貨物列車を運行していた。特急‟日本海”が大阪~青森間を運行して、上り列車で、敦賀機関区へ引き上げ、同じ‟EF81”で大阪へ行き、トワイライトエクスプレスも同様である。
客車は、長距離列車で運行することに経済的あった。荷物車や郵便物はJR貨物が管理し、大型のブルートレインを10両以上を高速で運行したり、1000トンの重量貨物列車を単機で運行出来る電気機関車で、2~4両の50系客車を近距離を往復するのは、見ただけでも効率的にも不経済である。交流の‟701系”雪の多い寒冷地に客室と扉が一緒になったロングシートの電車を使用するとは、具合悪く感じた。羽越本線の交直のセクション常磐線の電車は中間車が電動車では4両編成で雪の多い新潟県には、具合悪くて酒田~村上間は、気動車になって架線下のディーゼルカーは好ましくない。が、交直両用電車は高価になるのか?
日本海従幹線の電化列車は、特急電車と貨物列車を牽く電気機関車かである。
投稿: ニッシー | 2020年4月12日 (日) 10時50分
ニッシーさん
懐かしいお話をありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2020年4月12日 (日) 20時34分