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2008年6月14日 (土)

青森 1978/10/2

川部-(633レ)→青森14:54着/15:20発-(544レ)→東青森

53-10ダイヤ改正の初日のこの日、仙台付近で128列車の脱線事故か何かがあったらしいです。この影響が遠く青森でも出て東青森から青森に戻れず、やむなくバスで戻りました。

配線図は行方不明です、あしからず。

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東京方です。

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東京方です。

以下は1985年11月8日撮影です。

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終端側です。

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終端側です。

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東京方からです。
581系のサシかサロが留置されています。

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東京方からです。
複分岐や妙に狭い線路間隔など、航送に関わる興味深い設備が見られます。
控車が邪魔です。

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東京方です。

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東京方からです。
右手前が東北線、左手前が奥羽線・津軽線です。

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東京方です。
中央やや右あたりに転車台があったらしいのですが・・・。
放射状に並んだ車止めにかすかな痕跡を見ることができます。

10img934
これはいったいどこ?記憶がありません。
廃車の485系でしょうか。

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コメント

最後の写真は青森駅の西はずれですね。
確実なのは1984~1986年にかけて(いつからいつまでの正確な時期は不明)サシ481が放置されていました。
この時期だとまだ廃車ではなく休車扱いかと思います。
国土交通省のwebマッピングシステム航空写真で見るとよくわかると思います。
位置的には西口に出る駅構内跨線橋からの撮影と思います。

以後は青森にいなかったものの、何らかでこの場所放置のサシの荒れ具合を見た覚えがありますので、鉄道雑誌に載ったかと思います。
写真にも写っていますが、道路から簡単にアクセスできる場所で鍵もなく車内にも入れ、1985年まではきれいな状態でした。

駅構内といえば1・2番ホームの立ち食いそばを食べながら、青函の貨物入れ換え作業を見るのが好きでした。
ホームはでかいスクーターみたいな郵便運搬車がよく走っており、当時は田舎の人特有の良さでいろいろと教えてもらったり入らせてもらった記憶があり、こちらが子供だったこともあるでしょうがいい時代でした。
こういうことがいろいろなプロの職に憧れて目指せる土壌だと思うのですが、昨今では危機管理やクレーマーなどのせいもあり難しい時代になってしまい残念です。
祖父ものんびり眺めるのが好きなのでよく連れて行ってもらいましたが、祖父はいつも青函連絡船待合室にいました。
私は待合室だと列車・貨車が見えにくいのでホームを走り回ってましたが。
青函の貨物構内入換は旭町の高架(東北本線単線部)手前の踏切まで頭を出すことが多く、踏切は自動ではなく手動(踏切手が常時いる)でした。
夜間到着する貨物もあり24時間動いていました。
今は構内も整理され客扱い以外ほとんど来る事がなく寂しい駅ですね。

コメントありがとうございます。
青森駅のホームで貨車の入換を眺めるなんて、うらやましい限りです。連絡船との貨車のやりとりは青森ならではですものね。
航空機や青函トンネルの影響で青森駅もさびしくなってしまったのですね。残念です。

いつもお訊ねしたかったのですが、青森操車の下り仕訳線と青森駅間の小運転線の関係は一体どうなっていたのか知りたく思っております。図面通り下り仕訳線群からそのままで単編成で送られていたのか、という疑問です。同時に上り貨物の処理です。青森駅で仕立てられる貨物列車もあったのは理解できるのですが、東青森駅側の到着線群(現信号所)に送られ、操車場の上り仕訳線に仕訳され、どこで出発編成されたのか、いささか疑問に持っています。上り線の引上線はさほど有効長がないようですし・・・この疑問に対する答えを授けて下さるような・・・青森口では整序されないような貨物列車が出ていたのでしょうか?

すみません、貨物列車の組成については知識を持ち合わせておりません。どなたかご存知の方いらっしゃいますか?

かなり経っているので御覧になっているかわかりませんが、
手元資料と記憶・体験にてわかる範囲で回答いたします。
(配線資料は小学館配線図東北530駅1983年、記憶と実体験1975~1985年頃)
貨物斜陽化時代ですので最盛期とは違った使用やこちらの記憶・勘違いも含まれているかと思いますがご容赦ください)
また、青森駅構内は西は運転所までの回送中線区間や短絡デルタ線、機関区・操車場までの
かなり広い範囲らしいですが、以下の構内表記は主に岸壁・客用ホーム近辺~短絡線付近までをさし
千刈踏切や旭町高架より東寄りは入らない前提でお願いいたします。

仕分け線と小運転線ですが客用車両を含めて以下のように使われておりました。
電車・客車は基本高架線ですが豪雨などダイヤが乱れたときや強風時は地上線を通りました。
また回送の機関車は高架線の西側も東側も走ってましたので、青森駅構内ということもあり
かなり柔軟な対応をしたと思われます。
(24時間見ていたわけではないので情報不足も多々あると思いますが)
1980年代は中学~高校でしたので結構見る機会も多く
特に青系の高速コンテナを見た覚えがありますのでコキ10000/50000系のこれらは
下りが本線から旭町高架手前分岐で高架下をくぐり東側に出てダイレクトに青森駅に入っていました。
構内の混み具合・連絡船状況、本線遅延状況などにより着線に進入することもありましたが
車扱いは減っており1980年代はあまり仕分け線は使われなかったと記憶しております。
ただし、配線の関係上津軽線側は全岸壁から、日本海縦貫(奥羽・羽越方向)線側とは第一・第二岸壁側とは
ダイレクトに入れなかったので操車場経由が多かったはずです。

連絡船は第一・第二岸壁は自動車や客扱いできましたが、第三は貨物専用で、
しかも天候などの関係でダイヤが乱れると着岸する場所が変更されたりもあったからです。
上記写真にもありますが車扱いの貨物ホームは、私の記憶でも583系・ワム80000放置が長かったのですが
本当に小さかった頃はあそこで貨物扱いを見たので、1970年代中頃までは使っていたと思われます。
津軽線関係も青森運転所までの配線では三線区間が長いのですが、回送車輌はいずれの線も使い
回送線も駅状況によりいろいろ使われましたが津軽線と奥羽線は、海峡線ができるまで渡り線がなく
ダイレクトに津軽線からデルタ短絡線には入れませんでしたので津軽線貨物は青森駅を経由していたと思われます。
奥羽線方向の貨物も上記の通り、一度操車場の着線に入り向きを変えて構内へ送り出したはずです。
構内岸壁も第三の方は錆びた線路も多く第一と第二メインで稼動してたので顕著になりました。
実際青森駅~奥羽に貨物が走ったのを見た覚えがほとんどありません。短絡線ではよく見ました。

東奥日報に載っていたと思いますが、青森の貨物は東青森駅に集約・ヤード廃止で再開発というのが
1980年代に出た時期であり、広大な車輌がない空間もしくは留置車輌ばかり見ていたのでお応えするには遅すぎたかもしれません。
車扱い全盛の1960~1970年代を知る方のお話も伺いたいところですね。

上記より連絡船より引き出した車輌をそのまま組んだあと、ダイレクトに出発・もしくは操車場待機と思いますが
待機はほとんどなかったと思います。
岸壁に対して着発線が2線ずつ確保されており到着を待たせた上で繋げていく事も可能でしたし
発分を繋げつつも到着を受け入れられたからです。
そして、奥羽はデルタ線を活用し方向転換出発・到着していたと思います。
 青森岸壁------------東北
 青森岸壁--操車場-デルタ線--奥羽
 津軽--青森貨物ホーム--東北・奥羽
という感じかと。

長々とすみません。

俗に言うヨンサントオ(1968年)で全線電化複線化の際に東青森ができたので
それまでは浦町駅も広くないですし青森駅で津軽線も担当し西側構内で処理や組替えたのではないかと推察します。
国土交通省の航空写真でも1975年では、西側構内も盛んに使われているようですし操車場も最盛期のようです。

そういえば操車場も、段階的に縮小したので最終的には本線横に着発線数本状態ですが
もともとは高架線そば(操車場北西部)に東北上り発線(青森操車場組み替えなしダイレクト発車)、
操車場中央部に奥羽上り発線(組み替え有り無し含む)、南側に奥羽下り到着線、
操車場東側に東北下り到着線と操車場組み替え分の東北上り発線が配置されてます。
奥羽系統の連絡船直接積み込みは中央部の発線もしくは高架そばの東北上り発線に入れてから方向転換したのか
第三岸壁方向にダイレクトに入れたのかはわかりません。
当時は親方日の丸国鉄ですしどの系統も操車場に全部突っ込んで組み替えてたのかもしれませんが…。

最後にターンテーブルは機関区内と、青森駅南の国道跨線橋南側にありましたが、
跨線橋そばは1980年代初めに取り外され埋められ、機関区も前後して整理されたと記憶しております。

“青森居住歴有”さんから、小生の愚問に対するお答えをたまわり、深く感謝申しあげます。霧を吹っ切り視界が広がった感を抱きました。仰せの通り津軽線関係貨物が駅構内西部で仕訳されていたとするなら、下り関係は殆ど全て対北海道という形になるわけですね。同地区はかつて浅虫駅方から二度の線形改良が為されたのですが、ヨン・サン・トオ以前は浦町駅から青森駅方へは複線で、北側旅客単線、南側貨物単線で、航走輸送に備えてか、大正15年に設置された青森操車場の腹で接し、機関区が駅から現地点に移転し、図上現信号所付近が上り引上げ線でした(線形的にも厳しい)。さらに改良され、短絡腺を通り機関区の南側の通路は奥羽下り貨物線、東北線を含め下り着発線は2線で仕訳線は多数となっており、“青森居住歴有”さんのお答えから、奥羽本線の貨物の扱い方に合点がいき、なお気象や場合に依れば地震によるダイヤに乱れに対応した設備上の余裕の設備であったのかもしれないと、少々納得しております。ついでに申せば、航走輸送が始まった頃の図では、今では想像も付かないのですが、青森駅は頭端式ホームでした。また機関区と言えば、2連の転車台が設けられていたようで、航空写真上扇形庫の東南東にその遺構が読みとれます。思いの外、改良が為されてきたのが多分北の要としての青森駅なのでしょう。
 ともかく謝辞を申し上げ、長舌悪しからず御勘弁ください。

いやいや、青森居住歴有さん、大感謝ですネ。
操車場に短絡線、それに航送が絡んで青森界隈は複雑な貨物の取扱いがされていたんですね。
非常に興味深いです。

SYさん貴重なお話ありがとうございます。
こちらこそ推敲もせずとりとめもなく書いてしまい恥ずかしい限りです。年々縮小していく貨物情勢であり運用も最盛期とは違ったことも多々あったはずで、余計に想像力をかきたてられるお話でした。
なにより皆様の体験や知識・ご意見などは、当時を偲ぶ上でも貴重なものです。お話はなんでもどんどん聞かせていただきたいです。よろしくお願いいたします。

>二度の線形改良
これは旧旧側は道路(旧線路通りと呼んでおりました)として、旧線路は文化ホールや公園・遊歩道として跡地利用されています。
1970年過ぎの幼少時はまだ旧線路について跡地利用されておらず、浦町駅構内は冬場は雪捨て場(子供のそり遊び場でもあり)になったりサーカス興行された覚えがあります。しかし1970年後半には平和公園として造成されてしまいました。
線路跡は1980年頃まではただの盛土や空き地で地元の人の通行路となっていました。
堤川にも遊歩道のために橋がかけられた覚えがあるので、一度線路橋梁は撤去されていたはずです。

上で書いたこととは矛盾してしまいますが、連絡専用着発線から直接出発・到着とはいえ、荒天時は欠航や遅延のある連絡船、雪害地域の奥羽線等、おっしゃるとおりで、考えると青森操車場がかなりのバッファになったと思います。航路あり、鉄道管理局境でもありで当時の青森駅職員の皆さんはさぞ苦労なさったと思います。

蛇足ですが、岸壁より東方向堤川河口に向けて臨港貨物線があり、1970年代は縮小しつつもまだ運行されておりましたが1980年代に入ると物産館アスパム新築計画とともに終止符がうたれました。

青森地区は不思議で、大きく見れば、下りとして進入する列車は真反対から、同様に上りも逆方向へ出発していきます。それらと連絡船とがどうリンクするかも同駅の命題です。
まず閲覧しうる古い写真の有無を調べたところ、モノカラーですが、画像が良かろうと思われるものを以下に掲げますが、撮影年度を御確認の上高い解像度(dpi)でご覧下さい。
48年米軍
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R375&photono=2
62年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MTO621X&courseno=C8&photono=14
67年http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MTO672X&courseno=C8&photono=14
73年
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MTO731X&courseno=C1&photono=14
米軍が作った地図と異なり画像上南西方にすでに下り仕訳線群が設けられていますが、操車場は南西方に突出する独立した紡錘形のままで、一体どう使われたのかと思ってしまいます(自身の有する昭和19年略図は上下仕訳線が後方ループ化されているのですが、扱われ方の上で強く疑問は残ります、特に東北線下り貨物)。浦町駅が存在した頃の東北線の上下貨物着発線の位置は現旅客線高架に北接した500メートル余りの部分の2線だけで、小生も小学館の図書しか新たな資料としてはないのですが、図書の図上東北上り線貨物出発線の位置が多分その位置で、一種曽ての名残なのでしょう。本当悩ましい限りで、かつては西の二カ所の踏切を遮断するような入換えもあったのでは、とも思っています。南に膨らんだ二度目の改良でも青森駅間との難点は改良できなかったのでは。とあれ、駅構内では柔軟に、または臨機応変に使われたのでしょう。“青森居住歴有”さんが仰せのように、駅員さんや総括担当者さんは、駅構内・各信号所・踏切警手、まして接岸されている船舶・対岸の函館駅への連絡等、休む暇もなかったであろう、定時通りにことが進行している時に安心と誇らしげな気持ちを抱かれたであろう、と身にしみて感じている次第です。 まずは用件のみにて失礼。

SYさんと同じで、私にとっても青森って不思議な駅です(もっともSYさんと違って、もっと低次元なレベルでの話です)。他にはあまり見られない航送のせいだと思うのですが・・・。
かすかではありますが、下り列車が青森駅に到着する直前、突然東北線が単線になったように記憶しているのですが・・・。

“青森居住歴有”さんの記述から触発を受けて一度整理せねばと発起し、略図をスキャンし航空写真と説明用のテキストを貼付ける作業を始めてみました。皆さんこんな作業を常時しておられる程すぐれて器用なんだと思い知らされつつ、その事前作業で現今の地図等を改めて集めてみたところ、とんでもないミス・勘違いを気付かされました。乗務員の交換等が為される現青森信号場は昔なかった青森中央大橋が跨ぐ、機関区に南接した箇所にあり、自身の認識とは全く違いました。自身の認識は荒川と八甲田大橋の間にあって、そこがかつての上り引上げ線で、2度目の改良時には東北線下り到着線・引上げ線であった箇所なんだというものでした。着発線が改良され信号場に変わった等という記事を鵜呑みにしたままで、前の機械では地理院の航空写真とgoogle に完全に依存していた為、およそ気付けませんでした。情けなくも20年以上の思い込みで、血が引くと言おうか、汗顔蒼白縮身の至りで、自身の誤解を平身低頭深謝申し上げます。従って自身の記述をそう理解して読んで頂けるよう改めて御願い致します。しばらくは船着き場である弁天町に赴き、88ヶ所以上を巡るべく黙して沈潜しなければと思い直しております…。

SYさん、スミマセン。
旧線(浦町経由)時代は、東北線は青森操車場の横っ腹に接するカタチで合流していたようですので、東北線下り貨物の着発線は青森操車場のどのあたりに配置されていたのでしょうか・・・。今頃こんなことに気づいて大変申し訳ありません・・・・(汗)。

“青森居住歴有”さんもご覧になった75年(昭和50年)の地理院の航空写真を先ずは掲げます。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/cto-75-20/c14/cto-75-20_c14_56.jpg
 これにはないのですが、仕業庫と機関区検修庫の間を抜け、扇形庫の東をかすめる形で現在青森中央大橋が架かっていて、その下に青森信号場があります。
 同写真の右側にある橋が八甲田大橋で、その東南東に伸びている部分がかつての上り引上げ線等、以降若干変化があるものの、ヨンサントオの改良時に東北本線下り到着線(後で着発線化?)・引上げ線・機回し線となった線群で、構内南側にある下り仕訳線群へ直で送り込める形になりました。上掲の写真の先に下りの本線との分岐部があり、さらに上下本線間の渡り線が設置され、本線はそこから北東方向東青森駅へとカーブします。本線の迂回改良ですから、この操車場構内には構造上の問題や難点があったと言えます。
 西側方向へと向かう奥羽線上り出発線は、白い建屋の貨車区の北側、上り仕訳線群に沿った形で架線が張られて存在します。
 航空写真では切れていますが、東側に向かう東北線上り出発線は、上り仕訳線から直接入られない形で旧線との合流部付近から西北西に直線で伸びています(概ね旧浦町経由の東北本線着発2線で、往時はこの位置から構内の南南東へと一旦大きく引上げ、仕訳けられていました)。この東北線上り出発線に対応する引上げ線は明確ではなく、デルタ線で扱われたのかと思っています。そこにさらに航送小運転や機走関係も絡んできます。
 なおその脇で旅客線は単線で高架になっていきます(“青森居住歴有”さんが仰る旭町高架で、今はない小運転線上下を跨ぎます)。
 余談ですが、大正末期、青函航送輸送・青森操車場開設に合わせた形で、連結器の一斉交換が行われました。米国の影響下の北海道は「手」のイメージの自動連結器でしたが、欧州の技術導入で始まった本州サイドの客貨車は、20㌔余りという重く操作性のないネジ式連結器でした。当時列車の解結とはすなわち、多分鍛造製であったであろう、重い連結器の開放・連結で、連結手の重労働によってなされました。列車の先端にあるフックに鎖をかけてつなぐ、またはその逆、そんなイメージでしょう。よって制動手や連結手の負傷が絶えなかったことは容易に想像できます。
 まあともかく梅小路(操)以上に解き切れないパズルのような悩ましい構造で、さらに波動要因すらあったことをお教えいただき幸いに思っております。現場の人たちはこの構造をたたき込み、さらに貨車というパズルのピーツを懸命にはめ込み解いていたのでしょう、たとえ漆黒の闇であろうが、真っ白な降雪時であろうが、炎天で線路が歪んで見えようが。

う~ん、青森操車場、難解ですね。
同時に俄然興味が沸いてきました。
ところで今月のRP誌、東北本線特集でしたね。青森駅の配線図を見て、「なるほどなるほど、青森居住歴有さんのおっしゃっている通りだなァ」と、とても感激してしまいました。

2010-03-18のf54560zgさまの記憶について。
 43-10改正のとき、旅客線の青操~青森が単線高架化されました。目的は航送入換ルートと平面交差していたための立体交差化です。
 東北本線は全線の複線化が完成間近で、ここを単線とした原因は不明です。ただし貨物列車がいないのでダイヤ構成は支障していません。
 この区間は20‰で、全線を10‰化した目的からも外れますが、カマがED75なので旅客列車の登坂の支障はありません。

名無しさん
情報ありがとうございます。
この間は旅客単線、貨物複線ですね。

 先々稿はC6217です。すみません。
 この区間は平面化して複線に戻すかと思ったらその気配はありません。工事費と効果を考えると想定外になるのでしょう。でも用地に余裕があるうちにやらないと・・・・・。

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