ちょっとひと休み
これがちょうど100件目の記事です。ちょっとここでひと休みです。
ふだんの記事では書けないことを書いてみましょう。
●どのへんまで行ったことがあるの?
北海道はありません。四国もありません。九州も2000年以降しかありません。つまり、本州だけです。しかも、西は兵庫・鳥取止まりです。これ以外を期待されている方がいらっしゃいましたら、ゴメンナサイ、いつまで待っても出てきません。
●どんな旅をしていたの?
基本的に周遊券でした。(今でも周遊券ってあるんでしょうか?)
周遊券の場合、1週間から10日間ぐらい、周遊区間内なら乗り放題で、急行も自由席なら利用可能でした。当時は夜行急行もいっぱいありましたので、これを使って夜を明かすことも多かったです。
たとえば、
・東北ワイド周遊券の場合、
会津若松23:32発-4218M「ばんだい12号」-郡山0:39着/0:55発-6403レ「おが3号」→山形3:37着
・北陸ワイド周遊券の場合
富山22:40発-506M「立山6号」→敦賀1:58着/2:22発-505M「立山5号」→富山5:50着
その他、北近畿ワイド周遊券なら827レ「山陰」、南近畿ワイド周遊券なら921レ「はやたま」といった具合でした。
YH(ユースホステル)もよく利用しました。
要するに貧乏だったのです。
(そのため写真も白黒なのですが、今は白黒をプリントするほうが高いんですね。失敗したァ~。)
●線路配線はどうやって調べるの?
これは秘密ということにしておきましょう。ただ言えることは、基本は自分の目でみることと、「当時はまだユルかった」ということでしょうか。
それと、残念ながら紛失してしまったものが結構あるんです。
青森・秋田・平・富山・金沢・鷹取など、なんと約50か所もの配線図が行方不明なのです。う~~~どこへ行ったァ~?
●ところでこのブログはいつまで続くの?
見ての通り、このブログは古い記録を少しづつ小出しにしているだけです。
その日その日の出来事を記事にしているわけではありません。
要するに、記事のネタには限りがあるわけで、すべてのネタを出し切ったらこのブログは終了するわけです。極端な話、一気に記事にすれば明日にでもオシマイになるかもしれません。
まあ、それは極端だとしても、いずれはネタが尽きます。今まで99の駅等を紹介してきましたが、あと一体いくつ残っているのでしょう?
私にもわからないのですが、それまで末永く見ていただければうれしいな、と思います。
今後ともよろしくお願いします。
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期待して次回を待ちます。個人的には、宇都宮の配線図がみたいです。しかも、特急全盛時代のです。
当時東北本線はひっきりなしに特急列車が走っていました。普通列車なんて片隅に追いやられ、あっちこっちで退避していたように感じます。
投稿: のん | 2008年5月16日 (金) 20時28分
ゴメンナサイ、宇都宮は記録がないのです。関東近辺は「いつでも行ける」と思っているうちに結局いけなかったところがほとんどでした。
新幹線ができる前の東北線にはそこらじゅうの駅に待避設備がありましたが、今ではかなりの駅で設備が撤去されてしまいましたね。
投稿: f54560zg | 2008年5月18日 (日) 13時29分
わア、このページを拝見してと声を上げました。今までつい配線図面のある頁に目が走っていたのです。確かかつての風景と配線に無限の惜しみない愛情と努力が注ぎ込まれているのは感じておりましたが、ここまでとは、と思い直しました。勝手な要求など口にしてはならないし、一定の整理された資料を当方としては味わい、現場に住まわれる方などの知識をもって吟味されたものを受けたまるべきだと思い改めさせられました。自己の未熟さを痛感させられました。ところで、宇都宮駅は重要にもかかわらず段落ち駅の悲哀は確かにあると思います。小山電車区が設置された時くらいか。大きな扇形庫が・・・
投稿: SY | 2009年1月27日 (火) 17時15分
SYさんを含め、皆さんそれぞれ自分の趣味にはこだわりをお持ちかと思います。私の場合は鉄道趣味の中でも少しばかり「異端児」であり、余り興味の対象とされる方が少ないだけのことだと思います。
1980年頃の宇都宮は80両もの電機を抱える一大基地でしたが今や見る影もなくなってしまいましたね。
投稿: f54560zg | 2009年1月27日 (火) 20時56分
チョット一休みに 私は子供の頃から品鶴線や大崎支線の線路端で通過する貨物列車を飽きず見て居ました PC購入後初めて此のサイトを見つける切っ掛けになったのは 小田操車場で検索していた時でした抑々小田操車場等と云うマイナーなものがネット上に存在するのかと 操車場と言っても小じんまりしたもので普通の貨物駅から荷扱い設備を省いた程度の操車場 果たしてそんなのがヒットするのか 決果此方のサイトに辿り着きました まさかあの小田操車場の配線図が有ったとは 40年位前未だ小田操車場が有った頃たまたま鶴見線や浜川崎線の17m国電乗りまくり及び弁天橋電車区見学等した帰り尻手経由で帰ろうと浜川崎線電車乗車の折 川崎新町で脇にEF10かEF13が貨物列車を引いて停車してました機関車だけ写真に写しました 後日再び行こうと思ったが御承知の如く消えて仕舞いました どんな配線だったのか随分長い間悩んでました偶然此のサイトで初めて完全な姿が解り漸く納得しました 他の駅や操車場が有るのか貴下のホームページを開けてビッツクリ感動して仕舞い 以来嵌ってしまいました 私は事鉄道に関する限りオタクでしょうね
投稿: yyoshikawa | 2014年7月18日 (金) 18時55分
いつも楽しく拝見しております。身延線の掲載予定はありませんか?できましたらお願いしたいです。
投稿: kusu | 2014年7月19日 (土) 11時58分
yyoshikawaさん、十分なオタクです(笑)。子供の頃の私の守備範囲は常磐線沿線だったもので、残念ながら小田操車場は実見しておらず実態がよくわからないのですが、「操車場」という言葉から連想されるイメージとはちょっと違う印象を受けました。
kusuさん、今のところ身延線は予定にはありません、ゴメンナサイです(汗)。
投稿: f54560zg | 2014年7月20日 (日) 21時15分
鐡道省国有鉄道における54形の悲劇
過去54と云う形式を付けられた車輛は何れも何等かの悲劇性が付きまとっていた
先ず幹線電化用に各国から輸入した電気機関車の一つスイスブラウンボベリ製ED54駆動方式をブフリ式としたため取り扱いが複雑で更に2輌だけなので流石の日本で使いきれずオーバーホールの度調子が悪くなり運から外され休車になり戦後直ぐ廃車になった次にC54当初C51の後継機として開発されたが程なくC55が造られ両数が少なく中途半端なC54は結局C51の後継機にはなれなかった
モハ54はモハ51の出力強化した中距離電車の華になるはずでしたが戦争の影響からやはり少数派となったEF54は鐡道省の国産幹線用電気機関車として初めて製造されたEF52のギァー比を変更した為同型ながら別形式になった然も少数で有り後にEF14に形式変更された最期の54はDD54ドイツの技術導入で作られた液体変速器のディーゼル機で性能面ではまあまあでしたがプロペラシャフト脱落で転覆事故を起こし以来DD51に取って変わられてしまうという悲劇の連鎖でした
JR発足後54と云う形式を付けた車輛は出現してませんね
投稿: yyoshikawa | 2017年11月26日 (日) 19時03分
yyoshikawaさん、「54」は悲運の形式ですね。
個人的にはクモハ54は好きな形式なのですが。
投稿: f54560zg | 2017年11月27日 (月) 20時53分
年末最後に極秘ネタを大放出ではありませんが、秘匿さを高める意味合いでも、blog内でも、なかなか閲覧する機会の無い 《ちょっとひと休み》 の項へのコメントです。
このところ私のコメントの定番になりつつある yyoshikawaさんのコメントへの追随になるのですが、国鉄型式《54》に纏わる考察は、いつ 誰が 言い出したのかは貞かではありませんが、まあ そう言われればそうだなと、誰もが異口同音に感じたのは間違いなさそうです。
時と場所を言えば、個人が特定されていまいそうですので、敢えて伏せますが、ある時の某所、その昔に国鉄本社で車両開発に携わったと言う方にお話を聞く機会が有りました。
話の発端は、キハ81系やキハ181系の就役時の初期トラブルについての会話で、当時の国鉄特急型車両は、自動車とかとちがって、いったん走り出すとエジソンは全開状態で継続し、東北初のDC特急 はつかり の「はつかりがっかり」トラブルをまねいたとのお話しでした。
この話しは、鉄道ファンのあいだでは基礎知識なのですが、ここからは当の国鉄本社OBの方に、車両トラブルと言えば、播但線のDD54型にも多発していた事を話したところ、「初めてお話しするんですが」と、DD54型の開発秘話を披露してくださり、例の動力伝達用のドライブシヤフトの強度不足が車両トラブルの発端なのですが、その強度不足での車両工学上の計算ミスの原因は、ドライブシヤフトにブレーキシステムを併設したからなのだとお話し下さりました。(鉄道車両は全て計算式で成り立つとおっしゃっていたのが非常に印象的でした)
要するに、自動車のディスクブレーキのような機構をドライブシヤフトに併設し、台車側の車輪のディスクブレーキ板はレールに対して平行なのですが、ドライブシヤフトにブレーキディスク板をレールに対して直角になるような姿に取り付け、その機構がドライブシヤフトの強度不足を招いた要因だとおっしゃっていました。
制動力を高める意味合いでのドライブシヤフトにブレーキ機構を追加したとに、わかには信じ難いお話しでしたが、その部品を製造した車両メーカーである三菱重工の下請け会社の社名も教えていただきましたが、それは半世紀も過ぎた今となっては、霧の彼方ということにしておきましょう。
投稿: E10 | 2017年12月30日 (土) 02時11分
私の前出コメント、年末のお笑いコメントではありませんが、エンジンをエジソンと誤記してしまいました。
yyoshikawaさんのコメントにつられ私は偶然にこの項にコメントしたのですが、以前のKusuさんのご要望に身延線の記事が出現していて良かったですね。
f54560zgさんの記事の采配には予測がしがたい部分の反面、その想定外さに『ワクワク感』をいつも感じ、本年も楽しみいっぱいでした。
いつもと代わり映えしない言葉でしか表現出来ませんが、ほんとうにうれしく思い感謝申し上げます。
投稿: E10 | 2017年12月30日 (土) 02時49分
E10様
DD54転覆事故の詳しい経緯に付いて投稿有難う御座いました DD54と云うディーゼル機関車は当時の西ドイツ国有鉄道(DB)の210形ディーゼル機関車に似た欧風デザインのボックス型機関車で中々洗練されたデザインでしたが両数面や使用線区が限られていたせいか一般的でなく然も転覆事故をおこしてからは嫌われてしまったのでしょう
私はDD54の欧風デザインの外観は割と好きな機関車で1970年代に尼崎で福知山線のローカル列車を牽引して大阪へ向かうのを見て賺さず乗り換え大阪に戻った事が有りました
投稿: yyoshikawa | 2017年12月31日 (日) 15時36分
JR発足時JRJR貨物でEF66を上回る高性能電気機関車EF200を開発投入しましたが変電所容量の不足で本来の力が出しきれず結極持て余され現在休廃車が進んでおる事は残念な事です
54の悲劇に続く悲劇な機関車でしょうか・・・
今年一年あれこれ述べてました来年も宜しくお願いします
投稿: yyoshikawa | 2017年12月31日 (日) 15時50分
E10さんのDD54の強度不足についてのお話の件は、まさに特ダネですね。どのような場であったのかはわかりませんが、貴重な機会だったのですね。
yyoshikawaさん、DD13やDD51を見慣れた私にはDD54はカッコいい存在でした。
投稿: f54560zg | 2018年1月 4日 (木) 15時47分
こちらのローカル局のサンテレビ(関東ならテレビ神奈川のようなところ)で、キー局からは少し放映時期はずれるのですが、今や芸能人の中では一番鉄道関連に精通されているであろう、ダーリンハニーの吉川さんが旅人を務めていらっしゃる「鉄道ひとり旅」という番組内で釧網本線の旅が放送されました。
道中、川湯温泉駅だったでしょうか、宿泊先に旧客車両のスハ42系を使用したカラオケルームの場面があり、車内端の座席面に国鉄当時の広告板が写し込まれていて懐かしく視聴しました。
国鉄車両で旅をしていると、車内からデッキ通路に出る時に必ず目に飛び込んでくるシーンで、昭和60年代頃の0系新幹線なら通路デッキ内だったでしょうか、「矢崎のタコグラフ」、在来線の車両なら「旅師よ、君が牽引者」というような広告があったのを記憶しています。
所謂キャッチコピーの類いなのでしょうけど、当時に機関区巡りをしていた旅人の端くれとして、おおいに旅人心をくすぐられました。
80年代頃から、山口百恵の「いい日旅立ち」キャンペーンの一色だった国鉄ですが、《旅師》というフレーズに、趣味界でも超マイナーな機関区巡りの旅が認知されたような、そんな気分を感じたことを懐かしく思い出しました。
今後も引き続き、配線旅師の f54560zgさんが配線図趣味界を牽引されて行くことを楽しみにしております。
投稿: E10 | 2018年3月10日 (土) 00時22分
E10さん、懐かしいものを思い出させていただいてありがとうございます。車端部の広告、必ず目にしましたね。特に客車のそれに感慨深いものがあります。最近の広告では新幹線の流れる電光掲示板のもの(住友ベークライトとか)しか記憶にありません(汗)。
投稿: f54560zg | 2018年3月11日 (日) 22時03分
先日北海道新聞社発行 久保ヒデキ著 定山渓鉄道と云う書籍を購入致しました 定山渓鉄道と言うと纏まった記事は鉄道ピクトリアル私鉄めぐり定山渓鉄道位でしょうか
よくこの手の新聞社発行の鉄道関係の書物は読むのは楽しいですが記事的には偏った編集のが多いのですが此の本では各駅の配線図(構内実平面図)と航空写真を併記してます唯難を言えば駅平面図が小さいので見難い事です棒線駅の平面図も掲載されて居るのは珍しいです
平面図ですので土地境線路のカーブの曲り具合分岐の方向建物配置等が解る図面です
定山渓鉄道は車輛面では路線長の割には種類の多さが特徴でおよそ鉄道車輛の全て揃えていたと云ってもの過言ではなかったSL DL EL EC DC PC FC全て揃えてた然もSLはテンダー機当然起点と終点にはターンテーブルもあった
客車には北海道炭鉱鉄道のコロ1に等という珍品を所有していました 北海道炭鉱鉄道の客車は国有化の後殆ど樺太へ送られてしまい内地に残ったのは鉄道博物館に収蔵されてる開拓使と小樽総合博物館に収蔵された定山渓鉄道のコロ1保存後い1だけです 1870年代のアメリカンナローの客車として現存する数少ない車輛です(現密に言うとい1は手宮工場製ですがデザインはオールドアメリカンです 又余計な事を彼是述べてしまいました
投稿: yyoshikawa | 2018年3月21日 (水) 17時18分