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2008年4月27日 (日)

会津若松 1979/8/8

会津田島-(324D)→会津若松9:01着/12:26発-(429D)→西若松

324Dはキハ55103、429Dはキハ45520に乗車しました。

19790808r

会津地方の中心駅であり只見線が分岐していますが、磐越西線は当駅でスイッチバックする線形になっています。
本線は6本(下り本線・中線・上り本線・只見本線・只見2番線・上り1番線)あり、磐越西線の列車は下り本線・中線・上り本線・只見本線・只見2番線、只見線の列車は只見本線・只見2番線・上り1番線を使用します。只見2番線のホームの反対側はホームに面していますが機回り線であって本線ではありません。
会津若松運転区が設けられており、転車台・扇形機関庫が現役でした。

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上り本線の郡山・新津方です。1979/7/20撮影です。

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ホームから見た会津若松運転区です。1979/7/20撮影です。

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只見本線の終端側からです。

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小出方からです。

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客1~5番線付近です。会津若松運転区には15両程度の客車が配置されていました。

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奥のほうには雪カキ車が留置されていました。キ240とキ195です。

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転車台と扇形機関庫です。会津若松運転区にはDLの配置はなく、DD14は郡山機関区の所属です。

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磐越西線の電化区間はED77の独壇場でしたが、所属は福島機関区です。

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コメント

 1966年でしたか未だ磐越西線が非電化時代夏の家族旅行で裏磐梯へ行った帰路会津若松に出た 上野行き急行列車を待つ間隣りホームに偶然新津発のC571牽引の普通列車が入線して来たのです当然写真に収めました未だ蒸気機関車が当たり前に動いておる時代でした 帰路上野行急行は客車列車でしたが残念なことに牽引はDF50(今思えば贅沢な経験ですが)でした途中川桁で沼尻鉄道を車窓から見たり中山宿では駅進入停止中対向列車はD60牽引列車でした 郡山で先に到着していた東北本線上り急行列車の後部に乗車していた列車が併結されるその折磐越西線ホームより蒸気牽引で入れ替え東北本線急行後部に併結されましたまだまだ蒸気が活躍していた時代でした

yyoshikawaさん、いつも「表向きは家族旅行」のお話、ありがとうございます(笑)。
1990年頃に郡山駅で「ざおう」に「ばんだい」が併結される様子をビデオ撮影したのですが、そのときは「ざおう」が上野方に引き上げて「ばんだい」の前部に連結していましたね。

 ふと思ったのですが会津若松は郡山方からは地理的には北方から進入が当然ですが会津若松から新津へ向かうのはUターンして向かっても良さそうに思うのですが只見線は会津若松を出ると西若松から西に向いつつ会津高田から北に方向を変え会津板下へ向かいます会津板下と喜多方との間は直線距離で10Km位しか離れてないだとすれば会津若松でスイッチバックせずUターンして喜多方に向かっても良かったのではと思うのですが 会津若松から郡山へ向かうのに翁島迄の間トンネル無しで六回Ωループを繰り返し高低差を克服する大陸的線形で割と好きな区間です途中引き込線の有る駅精錬会社の工場をぐるりと廻る所等有り楽しい区間ですね 気付くと結構高くに登っておるのです 5月の連休の頃一度此の区間を通った時会津盆地は雪等無かったが猪苗代に登ると雪原が広がっていたのを思い出しました

yyoshikawaさん、おっしゃる通りこのあたりの磐越西線の線形はちょっと不思議ですね。まあおそらくルート選定時にいろいろすったもんだがあったのではないかと思いますが・・・。

 S形ステーション 会津若松駅の様に平坦線なのに列車が駅に入線後バックして發車する様な構造の駅を雑誌鉄道史料にS形ステーションと呼んだ記事が有りました 会津若松の他に旧千葉駅大網駅等が該当しておると書かれておりました
 他に駅間で退避の為一旦バックして側線に入線して退避しるS形信号所と云うのも有りました
 勾配途中で列車が分離事故を起こした場合いに暴走車と後続列車が衝突せぬ様逃がす線もS形信号所と言うと書かれて居りました

yyoshikawaさん、
>暴走車と後続列車が衝突せぬ様逃がすS形信号所
いわゆる避線(キャッチサイディング)のことでしょうか。

大体仰せの通りです 1925年に自動連結器に切り替え後列車分離事故は減りましたが 其れ以前の螺旋連環連結器時代には連結強度が弱く勾配区間での分離事故は多かった 更に直通ブレーキ未装備(真空ブレーキ)客車は略直通ブレーキを装備していましたが貨車の大多数は直通ブレーキ無し 其の為特に重量の重い貨物列車の勾配区間での分離事故は官鐡各私鐡鐵道院鐡道省含めて問題視されてました ブレーキの脆弱も問題で緩急車を編成中に何輌も連結して機関車の汽笛で一勢いにハンドブレーキを掛ける 下り勾配の手前で貨車の足踏みブレーキを掛ける等それでもダメな時にキャッチサイディングに追い込む処置をした 
 キャッチサイディングは本線とは逆方向へ線路を向け尚且つ逆勾配を付け強制的に停車又は脱線転覆させる二択で他の列車との衝突回避させた
 当時貨車の緩急車ワブ ワフ トフ等は車掌の乗車用よりはブレーキ率強化の為に作られていました更にフワ30000形に至ってはヨーロッパに多くみられたブレーキキャビンを屋根上に吐出させた形状でブレーキ室を出来るだけ少なくして尚且つ積載重量を増やす目的で作り出されました
 後年自動連結器化と貨車に自動空気ブレーキを装備される様になると不用になり通風車冷蔵車家畜車等に改造されました 尚鉄道博物館のマレー機関車9850形展示脇のTVモニターに1923年頃の箱根越えの映像中にフワ30000が数輌繋がったのを見る事が出来ます写真では多々見られたが実際動いてる姿は珍しいと思います 当時の幹線貨物列車の編成状況も解る貴重な映像です
 

yyoshikawaさん、勾配区間での分離事故というのは結構発生していたんですね。それに対しキャッチサイディングはどの程度実績があったのでしょうか。
フワ30000、すごいカタチの貨車ですね(笑)。

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