高尾 1979/5/4
中央線はここまでが東京都で、次の相模湖駅は神奈川県です。
ローカル列車は大半が当駅で系統が分離されており、東京側は103系、松本側は115系が輸送を担っていました。
そのため東京方に対しては4本の本線のいずれも発着が可能になっており、松本方に対しては進入は2本ですが上り本線からも下り列車が出発できます。
東京方からです。左の高架は京王線です。
ホーム上には大きな天狗(?)のようなものがあります。
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これも懐かしい。
天狗の石像の写真の奥に、京王線が走っているのが写り込んでいますね。
投稿: 性悪狐 | 2015年3月27日 (金) 00時41分
性悪狐さん、そうですね、よくよく見ないと気づきませんが(汗)。
投稿: f54560zg | 2015年3月30日 (月) 21時45分
高尾(浅川駅)は戦前から首都圏通勤電車が到達出来る最西端駅でした 戦前此の先甲府迄電化されていましたが 飽く迄電車区間は高尾(浅川)迄其れから先は旅客区間と云う厳密な区分が有った其れは 東海本線大船(横須賀線)総武線千葉 常磐線松戸(後取手) 東北本線大宮(京浜東北線) 等も同様でした 殆どの線は其の先も比較的平坦線区間が続きます(関東平野の特徴)
が中央本線は高尾(浅川)以西は小仏峠を始めいきなり大山岳線に変身 尚且つ明治期開業線区で有る為建築限界の小さい隧道で建設された関係で通常の電車が直通するのに通常車体断面に電車用パンタグラフPS11PS13等を乗せると折り畳み高さに近いため電車の直通は出来なかった戦後モニター屋根のモハ30形更新の折屋根高さを低くしてギリギリ通過出来た 其の後中央本線山岳線用モハ71形で屋根高を低くして漸く電車による直通運転可能になった後モハ72820番台も同様に屋根高を全体に低くして運用にはいった須賀色 其の間余談ですが富士急行は自社製キハ58形を作り中央本線DC急行に併結運用も有りました 101系が作られた折付属編成の一部にパンタ部のみ低屋根化した車両を製作投入中電の115系も他線区用と違いやはりパンタ部を低屋根化した系列を投入他の115系と差別化の為やはり須賀色に塗られた 165系急行型も然りでした 201系制作の折パンた折畳み高さを設計変更した(形式失念)新形パンタを乗せた為漸く屋根高さを通常断面に出来る様になった此れに伴い直通電車の本数増加 猿橋大月辺り迄首都圏住宅地化となった Zパンタの233系に至ってはグリーン車の併結話しも持ち上っています 嘗ての分界駅であった高尾は中間駅になりました 然し高尾駅の虎箱は残るのでしょう
投稿: yyoshikawa | 2015年11月25日 (水) 19時42分
高尾駅にはおそらく他の駅には無い施設が存在しております多分今も 其れは虎箱と云われておる施設です御承知の如く中央快速は高尾止まりです 然も中央沿線には日本最大の繁華街新宿が控えております 当然の事夜此の繁華街で酒を飲むサラリーマンも多くおります 其の人達が酔っぱらって大虎になり中央線の最終電車に乗車其の侭車内で寝込み下車駅すべき駅を過ぎ終点の高尾迄来てしまう 既に東京方面への列車は無くなっており戻れない 終着駅の為駅員により電車からは追い出されるさりとて其の儘ホームに置いて置く訳にもいかぬ 其の為大虎達を翌朝迄収容させる部屋が駅に併設されておる 其れを虎箱と称しておる 収容された大虎達は酔いが醒め皆神妙にな面持ちで翌朝始発電車に乗車戻って行く
何と無く哀愁が有る施設です
話しは変わり戦時中大井工場で保管していた御料車を浅川に車庫を建設して収容していた 今では非常に貴重な官鐡 鐡道院 鐡道省時代の木造車両を空襲より守った事は当時の一般木像車両が殆ど存在しない現在 車両限界拡大の歴史を残す存在と思うのです 日本では古いものは使いずらい等からどんどん廃車解体して仕舞う 其の為 鉄道博物館を造っても本当に保存すべき貴重な車両が既に無い ヨーロッパやアメリカの博物館等ではこんな車両迄保存展示しておるのかと云われる位多義に亘り収蔵しておる
明治大正時代の客車として実物が存在するのは御料車だけである 故に浅川の車庫に此れ等御料車を収容していた事は非常に有意義な事と思います
投稿: yyoshikawa | 2015年11月26日 (木) 16時57分
yyoshikawaさん、虎箱とは何とも言いえて妙な施設ですね。取手あたりにも必要そうな気がしますね。
投稿: f54560zg | 2015年11月29日 (日) 21時23分
首都圏国電区間の内早い時期から宅地化が進んだのは中央線沿線が最初で有る 西へ西へと宅地化が進むと当然通勤客が増加する 対策として国電初のカルダン駆動両開き扉の高性能通勤電車101系を他線に先掛け投入更に国電区間初の10輌編成化総武緩行線と分離高架複々線化等他線区に先駆け優先された 其の為高尾の虎箱もそんな関係で存在したのでは
其れに比べ常磐沿線は宅地化が遅かったが今や乗客数の増加で朝晩のラッシュ時103系や231系の15輌編成が走るようになっていますただ常磐沿線には新宿の様な大歓楽街が無いのも取手に虎箱が無いのではと思います
投稿: yyoshikawa | 2015年11月30日 (月) 21時05分
駅員さんに虎箱について聞いたら、首を傾げていはした。
今はないか、あっても虎箱とは呼ばれないのでしょうね。
天狗はこの頃には既にあったのですね。
いすみ鉄道→トキ鉄の鳥塚社長も指摘していますが、確かに保存される車両は少ないですね。しかも新しく車両を展示するためにそれまで置いてあった車両を撤去するのは如何なものかと。
私も、鉄道博物館は鉄道会社が運営してはだめで、第三者の機関が運営すべきと考えます。
例えばスーパーあずさE351系は、JR東日本にとっては失敗作で完全に消し去りたい歴史だったのでしょうが、そういう車両こそ残すべきだったと思います。これは185系も同じです。
投稿: 猫 | 2021年9月26日 (日) 08時14分
鉄道車両の保存は難しそうですね。
放置されて朽ち果てた保存車を見ると胸が痛みます。
投稿: f54560zg | 2021年9月26日 (日) 19時48分