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2008年2月17日 (日)

塩尻 1978/12/25

松本-(502M「天竜2号」)→塩尻9:18着/10:50発-(825レ)→南松本

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中央本線と篠ノ井線の分岐駅という交通の要衝で、塩尻客貨車区、松本運転所塩尻支所が設けられていました。
列車運転上は東京方←→篠ノ井方及び名古屋方←→篠ノ井方が主体で東京方と名古屋方を直通する定期旅客列車はなく、実態と合わない線路配線となっていました。
その結果後年の改良工事に至ったわけですが、塩嶺ルートの開通と合わせて大きな変貌を遂げました。

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東京方から見た篠ノ井本線・上り1~4番線です。

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中1番線の東京方です。

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東京方からです。

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名古屋・篠ノ井方です。

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中央下り本線の東京方です。

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松本運転所塩尻支所です。

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一番奥に転車台があります。

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2002年5月1日撮影です。右が旧線で辰野方、左が新線で岡谷方です。

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旧塩尻駅付近です。東京方からです。
貨物の着発線として利用されています。
立っているのは旧ホーム?

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転車台があった付近です。手前を左右に横切るのは新線で、右が名古屋方、左が篠ノ井方です。
右奥は旧線で、撤去されずに残っているため三角地帯が形成されています。

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新塩尻駅です。左が東京方、右が名古屋方です。

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コメント

正確な旧塩尻駅の配線、重要なものです。大昔名古屋方からのスイッチバックで、夜行列車の待ち時間中、一体どんな構造なのかなと思った記憶があり、また大きくなって昼間岡谷方からできたばかりの塩嶺トンネルを抜けた時にも旧塩尻駅の構造を把握できなかったためである。だいぶ前に東塩尻信も廃止されたし、この構造も単純になりそうな気がしてならない。

旧塩尻駅は貨物の着発線として残っていましたが、あまり使用されている形跡はありませんでしたね。東京方と名古屋方の短絡線も存在意義が薄いように思いますので、おっしゃる通りもっと単純になってしまうかもしれませんね。

初めまして,鈴木と申します。東京の外れでしがない大学教員をしている者でございます。たまたま検索をしている最中にこちらを拝見し,大変感銘を受けまして,ご連絡差し上げております次第です。

実は,私は塩尻駅の移転の経緯に興味を持っておりまして,当方の大学院生と二人で資料収集を始めたところでございます。しかし,何分にも昔のことで,ほとんど情報が無く,途方にくれておりました。それだけに,路線図を始め,貴重な当時の写真まで掲載されているこちらのサイトに,大変驚いております。

このようなお願いを致しますのはご迷惑かも知れませんが,もし差し支えなければ:
・塩尻駅移転について,何でも結構です。当時の経緯をご存じでしたら,ご教示いただけませんでしょうか?直接お会いしてでも,メールを介してでも構いません。
・路線図と写真の転載許可をいただけませんでしょうか?あるいは,出典をご存じであれば,ご教示いただけますと幸いです。

ご連絡先が分かりませんでしたので,このような形を取らせていただきますことをお許し下さい。折り返しメールを頂けましたら,当方の名前と所属を名乗らせていただきます。よろしくご一考のほどお願い致します。

鈴木さん、はじめまして。
ご返事遅くなって申し訳ありません。
・塩尻駅移転の歴史的経緯等につきましては、特別な深い知識は持ち合わせておりません。ごく一般的な、ネットで検索すればすぐに手に入るようなレベルでしかありません。ご期待に沿えず、申し訳ありません。
・図面や写真はお使いいただいて結構です。こんなものでもお役に立てば幸いです。
SYさんやE10さんは何かご存知ではありませんか?

歴史的にどういう形で中央東線が伸延していったのか、再構成していないので、歴史的条件は明瞭ではありません。大八回りと称される線形は、重機すらない時分という隧道建設の技術力のなさ、圧倒的なコストと必要な時間の節約だったのでしょう。例えば昭和十年頃にようやく丹那や清水トンネルが開通したことを考えればよいでしょう。他方地理的にいえば、辰野方やウトウ峠に到る単線急勾配や急曲線の解消の必要は、明らかでしょう。入手しやすい簡易な図書としては小学館の全駅各駅停車“中央・上信越」(旧版)の巻末の宮脇俊三さんの書き始めの部分に集約されると思います。研究者であられるのであれば、例えば学芸大名誉教授の青木さんや配線に詳しい祖田さんに尋ねうるのでは、と思います。自身が所有している『岐阜工事局50年史』にはたった1頁(p266)に、勾配断面図とともに「16㎞短縮され」、「岡谷・塩尻間は、昭和41年3月、線増計画の発表をおこなって以来、云々」とあります。複線化と同時に、です。十中八九この塩嶺トンネルの設置は、かなり昔から考えられた絶対的な方向であったと思います。比較的学術的な『鉄道ピクトリアル総目次』で過去に関連記事があるかどうかなんですが、字面に総当たりを掛けねばならず。あとは軍事輸送を目的として設計された旧駅が、運輸系統上ロスがあり、全体が松本方向に向かざるをえないことだったと理解しております。以上で。

はたまた加筆で汗顔至極の思いです。『総目次』をおおまかに総覧したんですが、見付けられませんでした(眼が痛んでおり)。『目次』の字面を見て思ったことは、当時の社会のあり方です。高度成長期の終末期にあって、国鉄は財政再建の問題が表面化しながら、同時に万博輸送、新幹線の延長~新設工事や幹線の電化や線増工事が強いられたことです。この時期首都圏では対オリンピック工事が一息つき、次に東北線の充実が目指され(俗にヨン・サン・トオ)、東京五方面作戦や、東京外環状線(現武蔵野線・京葉線)の計画・用地買収、海岸部では過重を支えるための、土壌改良(多分パイルの打ち込み)に着手されたのでしょう、財政問題と優先度の問題の兼ね合いです。中央線に関しては東京方から山線の改良が行なわれた結果、塩尻方の改良は結果的に一番遅れたのであろうと思えます。中央西線中津川~塩尻駅間の電化が1973年ですから、その十年後に塩尻駅改良は納得して頂けると思います。加えて長野県の古い地質図を見ると塩嶺は両輝石安山岩と記されており、実際問題清水トンネルほど土被りもなく、掘削は行なおうと思えば、可能であったと思います。現駅の立地は旧駅や中心部から離れない地点として、線形的におとされたのでしょう。なお、この地点では政治家の口出しはなかったと思えます。

お返事が遅くなりまして申し訳ございません。

お恥ずかしい話,この調査は指導学生(鉄道好き)の興味で始めたものでございます。私自身は住民運動や社会史のほうが専門で,移転問題が持ち上がったとき,地元の方々や行政が何を考え,どのように行動したのか,それらは大きな時代の流れの中でどのような帰結をみていったのか・・といったことが関心事でございます。

門外漢でありますため,皆様のコメントにすぐ具体的なことを申し上げるだけの知識を持ち合わせていず,お恥ずかしい限りでございます。それだけに, f54560zg様・SY様のご見解と,資料名のご教示は,そもそも何を見たらよいのかすら分からない私としましては大変参考になりました。有り難うございます。

これから塩尻で資料を探し,理解を深めて参りたいと思っております。また調査の過程でお知恵をお借りするかと存じますが,どうぞお力添えのほど,よろしくお願い致します。取り急ぎ御礼までにて・・ありがとうございました。

昼夜を分かたず、機械と格闘してここ迄たどり着けました。機械的に破損していないことを確認してハードディスクを消去した上で再度インストールしたところで、まだアイコンは並んではいません。さて後で「昭和50年掘削開始」「異常出水」「難工事」などの記事を検索結果から得ました。浮かんだのは松本城から南下し、諏訪湖南岸に雁行状上に伸びる糸静構造線で、まさしくこの塩嶺を伏在する形で通過しており、岡谷から辰野への縦谷は断層がなす地形であることも先の地質図でも示されており、構造線はこの断層によって切られている可能性が強く、この塩嶺には断層破砕帯が伏在していると思えます。異常出水や難工事はそれに伴うものと思えます。そこで工事誌の有無を調べたのですが。とあれ、「昭和50年掘削開始」「異常出水」「難工事」の字面が並んでいたのは、岡谷市か塩尻市の市の、または地域の広報誌のアーカイブのようです。当ってみて好かろうかと思います。やはり現場ですよね。

鈴木さん、何かお役に立てそうなことがありましたらご連絡下さい。
SYさん、大変ありがとうございます。いつもいつも多大なフォローをいただき、感謝いたしております。
ところで「ハードディスクを消去」とか、物騒な言葉が並んでいますが、大丈夫でしょうか?

■SY様,まことにありがとうございます。
HDDのクラッシュでしょうか。PCの最大の泣き所ですね・・。私も一度,派手にクラッシュしてからは,外付けのHDDを買って地味にバックアップを取るようにしています。最近はだんだんHDDではなく半導体メモリに転換する動きが加速しているようで,近い将来,もうちょっとデータ全滅という事態からは自由になりそうですね。

近いうちに,塩尻へ出向こうかと思っておりますが,広報誌や町史の類はぜひ調べてみようと思います。昭和50年というのがミソのようですね。ありがとうございます。

■f54560zg様
お言葉に甘えて・・なのですが,図の典拠について,もう少し教えていただければ幸甚です。

お写真については,f54560zg様が個人的に撮影されたものという理解でよろしいでしょうか?差し支えなければ,仮に転載させていただく場合に,できればご芳名を記させていただき,御礼の気持ちとさせていただきたく存じます。もちろん,これはf54560zg 様のお気持ちを最優先に考えておりますので,HNのほうが良い(或いは,サイト名で)ということであれば,そのようにさせていただきます。

また,配線図についても,ご教示いただければと思っております。論文へ転載する際には,出典を明示しなければならないと存じますが,配線図は知る限り一種の内部資料かと存じます。あれは,どのようにして入手されたものでしょうか?或いは,どの資料に所収されているものとして引用するのが正しいでしょうか?ご教示いただけますと大変有り難く存じます。よろしくお願い致します。

【塩尻】曖昧な記憶で申し訳ないのですが、そう古くない趣味誌(鉄道ピクトリアル誌でなければ鉄道ファン誌?)に、塩尻駅の変遷史のような記載が有ったように思います。 その記事が見つかれば情報の一つになると思うのですが。 私が塩尻機関支区を訪問したのは、79年の9月と、それから約10年後の、塩尻駅も移転し国鉄が民営化された後の2回で、しかも機関区部分しか写していません。 いずれもf54560zgさんの写真と似通っているのですが、違いがあるとすれば、雪がなく旧炭台の反対側の端が写っている、塩尻駅移転後の塩尻機関支区構内配線改良後はガンジキのような配線上にEF64やED62などの機関車が写っていることなどでしょうか。 塩尻機関支区に関しては、SLのC50や8620が少数配置されて入換えなどに使われていたことしか知らず、小振りな機関区を想像して転車台目的に訪問したのですが、いざ訪問してみればf54560zgさんの写真のように、EF64やDE10がゴロゴロしていました。 その光景が祟って、アルバムには勘違いして塩尻を篠ノ井と記していたほどです。 今年の2月に 特急しなの で塩尻駅を通った時もf54560zgさんの02年の写真のようにデルタ線の内側はからっぽで寂しい雰囲気でした。 二度目に訪問した時ですが、当時ご経験された方もいらっしゃるかと思いますが、国鉄民営化前後の時期は、様々な現場でオレンジカードの購入を勧められ、この塩尻でも構内を案内して頂いた方に、SLの部品を進呈するのでオレンジカードの購入を勧められた事を思い出しました。 当時の写真を捜すのに手間取ったり、あまりお役に立てそうにありませんでしたのでコメントが遅くなり申し訳ありません。

E10様,初めまして。ご丁寧に有り難うございます。
恐らく仰っているのは「鉄道ジャーナル」の2003年5月号(通巻439号)のことではないかと存じますが,それとは別のものでしょうか?

つい先ほど,くだんの学生が捜し出して持参してくれました。「中央本線のまん中を歩く」と題する特集記事が入っており,その一部に,ページにして2頁弱ほど塩尻のことが触れてありました。大まかな移転の前後の経緯くらいは把握できそうです。もしこれ以外にも同様の特集記事があるとしたらぜひ見てみたいと思っております。情報有り難うございます。

昭和49~51年は国土地理院の「国土画像情報(カラー空中写真)」で全国をカバーした頃合いで、USBに落とした塩尻駅のものを見直したところ、くしくも昭和50年撮影で、新設される駅部は土地収用もされておらず、他方岡谷方には新線の盛土構造物が続いておりました。写真から考えるに新駅駅部については若干もめたり、自治体との調整、適切な設計に時間を要したなどの事情が働いたのかもしれません。けだし自治体側にこの頃どういった都市計画が描かれていたのかも、側面的に認識を深化できるやもしれません。以上悪しからず。

鈴木さん、配線図や写真については若干差し障りがある部分がありますので、別途メールにてご連絡させてください。
SYさん、E10さん、いろいろ情報ありがとうございます。

冠着トンネルですか、排煙用の幕があったところだったと思うのですが・・・昔なら黒煙で窒息してしまいますよ。同トンネルからの連想になるのですが、自身の経験ではたぶん第二白坂トンネルを抜けたと思うといきなり光にまみれた西条(にしじょう)駅に進入したことが思い出されます。RP誌にはかつて一年に一度秋口に、線増・電化の工事について、一年間の目途が記され、西条~明科駅間は毎年毎年、一行ほどの記事が載せられ続いておりました。曲線と潮沢信号所の解消を目的とした隧道建設だったのですが、トンネルは完成したのに確かまだ単線だったのではないでしょうか。思うに、片勾配の長大トンネルというものは、設計に多分の配慮を必要としているのかもしれません。ぼんやり北陸トンネルの火災事故をも思い出しました。塩嶺トンネルも片勾配といえばそうなるのですが。

篠ノ井線はスイッチバックの駅・信号場がいっぱいあったのですが、潮沢(信)は白坂トンネルの改良で廃止されてしまいましたね。塩嶺トンネルでも東塩尻(信)と平出(信)(こちらはスイッチバックではありませんが)が廃止され、単純で合理的、だけどちょっと寂しくなりました。

御無沙汰いたしております。以前、塩尻駅の件でこちらにて質問させていただきました、鈴木です。その折りは皆様に色々とご教示を賜り、まことに有り難うございました。

お陰様を持ちまして、このほど、くだんの研究成果がまとまりました。肝心の中身のほうは、色々とご教示いただきながら必ずしも駅舎移転や鉄道敷設に限った内容ではなくなってしまいましたが、おかげさまを持ちましてすっきりと話をまとめることができ、僅かな期間で成果物を上梓できました。これも、皆様のお力添えのおかげでございます。

再々に渡って恐縮ながら、一言御礼を申し上げたくまかり越しました。このたびはまことに有り難うございました。謹んで感謝申し上げます。

鈴木様、お久しぶりです。
とてもお役に立てたとは思いませんが、論文の完成、お喜び申し上げます。
ご丁寧にありがとうございました。

 塩尻駅三枚目の写真 珍しくテルハ上部の移動機が上屋から出ておりますね貴下の写真を色々拝見して初めてテルハ上部移動機の写っていたのは初めてです

 追記 抑々中央本線は万が一東海道本線が何等かの異常事態が発生し運行不能になった場合東西を結ぶサブ路線と云う性格を持たせていた
 其れが為塩尻では名古屋スルーの配線に篠ノ井線が分岐する配線であった 戦後中央本線は東京名古屋直通系から対松本長野直通系運行にシフト特に西線全線電化でより顕著になったが現状塩尻では名古屋側からの長野方面はバック運転となり不便となるので両方より篠ノ井線方面に直通出来る様駅移転改良尚且つ当時貨物列車は直通出来る様旧線も残されました 似た様な改良工事は千葉駅と成東駅を移転し外房線の二回折り返し運転解消が有りました さて塩尻が移転した為東海道本線と中央東西線で巨大なデルタ線が形成されましたので塩尻長野間では電車の奇数向きが東線直通車と西線直通車では逆になりました 唯両線の車両が連結する事は無いので不便はないでしょう

yyoshikawaさん、テルハの移動機を意識したことはありませんでした(汗)。
昔の房総半島一周急行も、行って帰ってくると向きが逆になっている、っていう状態でしたね。

私、80歳です。昔、それも50数年前に、当時の塩尻駅前を降りて北側少し歩いた所に、「ますや」とかいう旅館に夏場に滞在(駐在)して、仕事をした事思い出しますが、今では駅も北に移動した様で、私も定年になった、今、どの様になっているか一度見に云って見たい気持ちで一杯です。

こうじーさん、コメントありがとうございます。
ぜひ足をお運びください。かなり変わってしまっていますが、どこかしらに当時の面影が残っているかもしれませんね。

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